僕のXデーについて

Xデーという言葉がある。

いつがその日かは分からないが、その日には何かが起こるというアレだ。

自分の心の内を話すのが恥ずかしくて他人に言うことはないけれど、何を隠そう僕はあるXデーを心待ちにしている。

そんじゃそこらのXデーじゃない。僕の待つその日は、それはもう、とんでもない一日だ。

そんなXデーについて少し話したい気分になっている。きっと秋風のせいだろう。

 

待たれるXデーの性質を以下に箇条書く。

①その日がいつ来るかは誰もしらない。もちろん僕も知らない。

②その日になにが起こるかさえ誰も知らない。なにせ僕も知らない。

③けれどその日が来れば必ず、僕はその日がXデーだと理解する。

④これまでの僕の人生はその日のためにあって、同時に、その日以降の僕の人生は精々その日を向いて後ろ向きに逆行するに過ぎない単なる抜け殻のように成り果てる。

⑤その日は必ず訪れる。

 

これは本当に、僕にとっては切実な胸の内だ。

ちらと聞いて陳腐な宗教的信条に過ぎないと看過した人もいるに違いない。根本の発想として携挙やらノストラダムスやら史的唯物論やらと大差がない。将来に備えるほどの価値があり、準備や前進が価値を最大化するという思考には、これといった根拠がない。彼らにとってはそれでいいのだろう。真に重要なのはその日ではなく、その日に備える心構えや行動であり、議論はいずれ今現在に焦点を当てることに移行するのだから。

けれど彼らはその日になにが起きるのか、完全ではないにせよ、概要を知っている。

僕は違う。その日になにがあるのか、なにかがあるのかさえ、僕は知らない。

不意に思えば、なにもない一日でさえXデーになりえるのだ。

そしてその日は僕にとってあまりに決定的な価値をもたらす。僕という存在の価値がその日全てに集結するし、これまでの僕の行動の全てがそこに集約される。

待って、待つ。僕はこれでも待ちぼうけるのが好きな人間だ。気長に生きていたい。

いい日になればいいなと、よく思う。待つだけの僕という存在にいくらかの値打ちをつけてくれと願いもする。けれどその日に対しての邪推に価値はない。というのもその日以外に、少なくとも僕にとって、価値のあるなにかというものは、原理上ありえないからだ。

 

こういった馬鹿みたいに子供じみたXデーを胸に抱えて、日々を待ち放浪する人は僕以外にどれだけいるのだろうかと、時々考えたりもする。そういないだろうと思いつつ、一人か二人はいてもいいんじゃないかとも。

一切の価値のきらめきが取り払われた人。その日を希望だと考えることは間違っている。その日が訪れたら、もうなにも残らないのだから。そして訪れるまで、手元にはなにも持ち得ない。荒涼とした砂漠の遭難者のように飢え乾き、映る風景は乾燥しているような人。一人か二人は、いるんじゃないかと、たまに考える。

その日のためにできることはなにもない。なにが起こるのかわからないのだから、なにかに向けての努力など、できようがない。待つことだけが、できることだ。

 

こういう性質をよく考えて、恐らくこのXデーは、それを忘れて放棄する日を、後から気づいてそう呼ぶことになるような気がして仕方ない。

その日を捨てて初めて、僕はその日を境にあらゆる価値を手中に入れられるのだから。

するとXデーはそう遠からず訪れるのかもしれない。自分次第でその日は来るのだ。

……本当に?

そう考えても、左手の窓の外を眺めて、秋風に吹かれると、間違いと乾いた目に息を吐いてしまう。その日になにが起こるのかいつ訪れるのか――訪れるまでなにもわからないことこそ、僕の胸の内のXデー公理だ。

だから、Xデーはまだ来ない。

 

僕の考えるXデーはそういう乾いた一日だ。