ドラクエ7 初期構想考察まとめ中編
ドラクエ7初期構想の妄想考察後編です。三ヶ月も放置していました。ごめんね。
復習がてら、前編でのポイントを簡単にまとめます。
・現行構想では『魔王の不在』が軸だが、初期構想では『神の不在』を軸にしたと仮定。
・過去メザレの不在と過去ユバールの違和感から、キーファ離脱を過去メザレと仮定。
・ユバールの役割から、二部構成の後半は『復活した神を打倒する物語』だったと仮定。
・物語後半から役割を持つ四精霊に対応する四人が主人公パーティだったと仮定。
・全体の主題は『自由意志と好奇心への肯定』で『決定論的な使命感』と対比される。
前編の引きで「炎の紋章の持ち主がキーファでは?」と論を進めそうな雰囲気で強調しましたが、申し訳ないことにただの下手くそなアバンタイトルです。書きながらまとめているのでそういうことになるのですね。僅かでも期待した方がいれば謝っておきます。
さておき考察を進めていきます。前回から引き続き、四精霊とパーティ構成、そして復活後の物語を主軸に置いて、初期構想を考察していきます。
8 多すぎるNPC戦闘員
ドラクエシリーズには正規パーティとは別に、連れ回して戦闘を共にしてくれるNPCがいます。
ドラクエ4なんかはオムニバスでパーティ人数が制限される都合か、多くのNPC戦闘員がいます。代表的なのはホイミンやオーリンで、彼らは物語上でも重要な役割を果たす上、何よりも戦闘バランスを調整する役割を強く担っています。
一応は加入させるか自由ですが、ホイミンがいなければライアンの一人旅は苦しいものになります。オーリンに関しては彼の加入は必須であり、姉妹が物理タイプでないことも助長し、適正レベル下でのバルザックとの戦闘バランスは彼を基準に決められています。
ドラクエ5でも、パパス・ベビーパンサー・ベラ・ヘンリーと、主人公が苦しい一人旅を強制されないよう調整されています。ドラクエ6で戦闘NPCが皆無(リメイクではミレーユが夢見の洞窟で戦闘に参加するように)なのは、パーティ調整の必要がなかった証左です。
さて、ドラクエ7です。この人数が非常に多い。戦闘バランスの調整に苦慮したのが窺える多さです。特にキーファ離脱直後の山場、ダーマ神殿で入れ替わるNPC戦闘員の多さは、プレイした人間なら誰もが記憶に残っていることでしょう。
ざっと列挙します。ウッドパルナでは『マチルダ』『ハンク』、オルフィーで『木こり』、ダーマは『フーラル』『カシム』『ザジ』『フォズ』、砂漠で『ハディート』、ハーメリアで『老楽士(ジャン)』、そして現代砂漠で『サイード』です。海賊たちも一緒に戦闘してくれますが、その性質とタイミングからも除外します。十人もいます。多いですね。
ウッドパルナとオルフィーでのNPC加入に疑問はありません。ウッドパルナは最初の冒険で、チュートリアルの役割を果たします。彼らが戦闘を行うことに違和感もありません。オルフィーで木こりが『戦闘』をすることに少し疑問を覚える方もいるかもしれませんが、この点はデス・アミーゴとの戦闘でのみ彼が参加すること、戦闘での役割がほぼ回復に集約されている点からも、明確に三人だけでは苦しい戦闘バランス調整を担っています。
ダーマに関しては最早説明不要でしょう。前編でダーマの挿入タイミングは主題との整合性から初期構想においてもキーファ離脱の直後だったと推察しましたが、ダーマでの戦闘NPCの多さは明瞭に、ダーマ時点でパーティ人数が『三人』になるよう調整されていたであろうことを示します。後半でダーマが冒険の拠点になる点も含め、構成上ダーマはかなり気を遣って調整されています。
気になるのはそれ以降の加入NPCです。ダーマ次の砂漠でのハディートと、メルビン加入の関門となるハーメリアでの老楽士、そして物語後半、四人パーティにも関わらず謎に加入するサイードです。奇しくも彼らは四精霊に関係の深いメンバーです。
ハディートの戦闘加入はボーンライダーのみと極めて限定的で、セト戦には参加しない点からも不自然さがあります。彼の子孫であるサイードがパーティ編成の固まった物語後半に、バランス調整上は不必要にも戦闘に参加する点も見逃せません。彼らはどうも構想の変化に伴い、隅に追いやられた節が垣間見えます。一旦覚えておきましょう。
そして老楽士のジャンです。キーファ離脱後、ダーマ・砂漠・クレージュ・リートルードと経由して、ハーメリアのグラコス戦で参加する彼は、グラコスが強ボスである点、そしてユバールに直接関係する人物という点からも、構想の変化を辿る上で重要な人物です。
繰り返しますが、メルビン加入のための人魚の月と魔法の絨毯のわらしべイベントは、構成上省略可能です。そして省略せずとも、砂漠・クレージュ・リートルードの物語を間に挿入する必然性はありません。ダーマ(メザレの復活)→ハーメリアによりメルビン加入でも、構成上の問題はありません。
そして前編で仮定した過去ユバールの不在と過去メザレの存在を考慮するなら、彼ほどユバールとメザレ、そしてキーファの影としてのメルビンを結びつける存在はいません。
彼は戦闘の面でも回復・蘇生・攻撃と隙のない、強力な戦闘NPCとして調整されています。現行の構成でも、グラコス討伐がメルビン加入の最大の障壁となっていることからも、また子孫のヨハンの存在など物語上の役割の大きさから鑑みても、恐らくハーメリアの冒険はダーマと同じくパーティ人数を『三人』であることを前提に組み立てたと見て取れます。
こう見ると、ガボ・メルビン共に、加入には障壁となる強ボスと、戦闘の助けになるNPC戦闘員が用意されていることが分かります。これはマリベルとの純粋な入れ替わりとなり、障壁の存在しないアイラ加入の違和感を強めます。アイラの加入タイミングはユバールが放浪の民であるため、『神復活の裏返しとなる死』が問題にならない限り常に調整可能です。
そして過去メザレがユバールに先行していたと考える場合、老楽士の物語上の立ち位置が変わります。具体的にはプロビナとレブレサックの神父のように時系列が前後します。知らないはずの人物が、自分たちを知っているような素振りを見せる構成です。
神父の記憶喪失設定は注目に値します。ここも後で考察するので覚えておきます。
矛盾だと指摘されることもあるようですが、過去遡行をテーマにした物語で時系列順序の入れ替えを行う構成は、『石板による過去介入』がある程度、運命的・既定されたものであるというニュアンスを強めます。なんだかんだ言いつつも『過去で魔王を打倒する勇者』が構想初期から握られていたと私が考える理由の一つがここにあります。
石板による歴史介入は自由意志的である一方、運命論的な従属性も持ち合わせます。
だからこそ現行でもオルゴデミーラは『神に作られしデク人形』と揶揄するわけですね。
9 物語順序の再構成その1
ここまでを踏まえれば、少なくとも魔王討伐までの物語の初期構想における順序考察が一旦可能でしょう。オムニバス形式に分けられた物語群にも、順番が重要な物語はあります。
現行シナリオ順序から先に確認しておきましょう。以下になります。
・エスタード→ウッドパルナ→エンゴウ→ダイアラック→オルフィー→フォロッド→グリンフレーク→ユバール→ダーマ→(メザレ)→砂漠→クレージュ→リートルード→ハーメリア→(世界一高い等でメルビン加入)→プロビナ・ルーメン・マーディラス(順不同。マーディラス以外はメルビン加入も不要)→(マリベル離脱・現代ユバールでアイラ加入)→聖風の谷→レブレサック→コスタール→天上の神殿→魔空間の神殿(魔王打倒)
こう見るとメルビンの加入前後の自由度の高さと反して、順不同の三つの世界を救わなければ登場しないアイラの存在は対照的ですね。最大で七つの世界を三人パーティで冒険可能です。他ナンバリングでは10レベル代で四人パーティが揃うことを考えると長いですね。
さて。まずは神と魔王に関する物語と四精霊に関する舞台を抜き出します。また仮定の通り、過去メザレをユバールと置換するように配置します。そして仲間の加入に関係する舞台も含め、必要がなければ現行の構成から変更しない場合、最低限度の物語順序は次の通り。
・ウッドパルナ→エンゴウ→オルフィー→メザレ→ダーマ→砂漠→ハーメリア→現代ユバール→聖風の谷→コスタール→天上の神殿→魔空間の神殿
上記の条件を満たしませんが、最初の舞台がウッドパルナは既定路線だったでしょう。NPCの役割や過去世界介入というドラクエ7全体の主題をコンパクトにまとめたチュートリアルステージとして、ウッドパルナ以上に適した舞台はありません。
コスタールは主人公の出生に関係する重要な世界である反面、順序については怪しい部分も見受けられます。出生の謎を仄めかしつつ強力な専用武器である水竜の剣を手に入れる都合、魔王討伐の直近に置く狙いは分かりやすいですが、最後の石板世界として相応しい世界の候補は他にもあります。というのも、コスタールでは直接に神と魔王の謎に触れません。
前置きが長くなりましたが、ここまでを踏まえた初期構想の魔王討伐までです。
「世界で唯一の平和な楽園エスタード島。主人公たちは謎を解き、魔王によって封印された過去の世界を解放していく。
冒険の途中で一行はメザレという神の兵の町を訪れ、神と魔王の戦いの事実を知る。キーファは使命感からパーティを離脱して神の兵となる。現代のメザレでは、神が魔王に勝利したこと、しかし勝利した神の不在の謎。そして神と共に戦った英雄が封印されているという情報から、一行はその英雄こそキーファだと奔走することに。
一行はダーマを旅する中でキーファの喪失と遊び人としての自分探しをしていく。
ハーメリアで謎の老楽士が自分たちを知っているような素振りを見せることに不思議を覚えながら、一行は遂に英雄を復活させるも、封印された人物はキーファでなくメルビン。
メルビンは神と魔王両方の不在と封印されたままの現代の謎を探るため加入する。
封印された過去世界を解放していく中で、現代でユバールという神の死を知っていて復活を待望する放浪の民と一行は出会う。復活の儀の踊り子アイラは、その使命を投げ出して一行と冒険を共にすることに。
そして全ての世界を解放した一行は天上の神殿で神と魔王の戦いについての真実――神は魔王に敗北したが、勇者によって魔王は討伐された――ことを知らされる。
一行は過去に戻って魔王を打倒し、自分たちこそが運命づけられた勇者だったと知る」
現行のシナリオとあまり相違はありませんが、キーファ離脱に必然性を持たせようと考えるなら、その関連はメザレとメルビンとの関係性に推進されるのではと考えます。
この構想の重要な点は、過去ユバールを必要としない点と、アイラとキーファの関連性にあります。この時点でアイラがキーファの子孫という設定だったのか――私はその通りだと考えますが、この結びつきはユバールとキーファ離脱が結びつかなれば発生しえません。
要するに過去ユバールは魔王打倒後・神復活後の四精霊を巡る冒険の中で、老楽士の謎に対する一つの答え合わせのように提示され、神と魔王の戦いの後、メザレから離れユバールの民として神を復活させようと放浪するキーファと再開する二部構成後半の鍵となる物語だったのではないかと、私は妄想しています。
10 神復活と四精霊を巡る物語構想
偽神復活後の物語は、四精霊を巡る現代の物語です。逆に言えば、魔王打倒までの物語において四精霊の存在は不要です。彼らは二部構成の後半部を担うため要請されています。
そして四精霊の設定が初期構想から握られていたであろうことは容易に窺えます。謎の神殿が四つに区分され、主人公が水の精霊を加護を受けている点。そして魔王打倒が運命的なものであることは主題に反しており、これを自発性の肯定に着地させるために、ユバールを核とする二部構成が当初から握られていたであろうことは、これまで考察した通りです。
では、魔王ではなく神が実際に復活することから始まる後半部が初期構想で握られていた場合、精霊の立ち位置と役割とはどのようなものだったでしょうか。
現行シナリオにおける四精霊の役割は、復活した神の正体が魔王だと暴くことです。四精霊は不在の神の代理人であり協力者で、明確に神の側に立っています。
一方、仮に復活した神が本物である場合、四精霊の役割は極めて大きく変化します。
神と魔王は明確な敵対関係にあり、ある程度善の性質を持つ一方、運命論的です。
その神と敵対する物語になるのであれば、四精霊は自発性を重んじる主人公たちの庇護者になります。使命や役割から外れた遊び人たちを肯定する、自然の世界の権化です。
モチーフから逆算することは避けると明言してきましたが、ここでは少し流用します。グノーシス神話における女神の霊的な役割と、対照的な物質的な造物主という構造です。この神話体系は複数のバリエーションがありますが、造物主とは別に至高神が存在するというのが常です。ざっくりと、女神はこの至高神の側に立っています。この神話構造を堀井氏は確実に知っていました。オルゴデミーラという名称がデミウルゴス(造物主)との繋がりを示唆しています。
女神なんてドラクエ7にいたか? 黄金の女神像がありましたね。
レブレサックの神父と関連する『黄金の女神像』がその名残りだと、私は考えます。
言うまでもなくドラクエ7の神様は男性です。少なくとも鳥山明氏によって、ほんわか神様も厳粛な神様も、長髭の最高神を彷彿とさせるようデザインされています。
なぜ『黄金の神像』ではなく女神像だったのでしょう。語感でしょうか。それとも聖母信仰を彷彿とさせる、宗教的な世界観の広さを感じさせるためでしょうか。炎の精霊を除き現行シナリオにも登場した精霊像では駄目だったのでしょうか。特に、水の精霊なんかはそれに近い要素を持ち合わせています。主人公と密接に関係する水の精霊は、処女懐胎の観点でモチーフが他よりも明確です。
ともあれプロビナとレブレサックと二つの世界に跨って展開された神父と黄金の女神像を巡る物語は、その顛末と神父の立ち位置の特殊性からも、注目に値します。
特にレブレサックは、ドラクエ7全体を包む大きな謎の縮図として提示されています。自己犠牲を厭わない神父の人格や磔にされるという図式も、他の物語と比してなお、モチーフ元からの強い影響を思わせます。彼の時系列が前後している点は、後の老楽士に繋がる布石であり、記憶喪失はそのリフレインを弱める狙いがあったものと考えられます。
逆説的に、レブレサックと関連するプロビナの物語は初期構想から握られていたと考えても支障なさそうです。最小限に構成した物語順序の中でも、中間として配置されるいくつかの物語は初期構想から握られていても不思議はありません。
マーディラスは『人が魔王になり得る』『その解除呪文を主人公が専用で覚える』という点から、キーファ=オルゴデミーラ説でよく槍玉に挙げられ、本来の構想ではストーリー上重要なポイントだったのではと言われもします。慎重に扱いたい反面、その内容が本線に絡んでいた場合、その残滓は現行シナリオに残っていないと言わざるをえません。現行シナリオから初期構想を復元する試みである以上、ここを深堀りすることは避けていきます。
現行シナリオにおける四精霊巡りの役割は実質上、ユバールの果たせなかった神の復活の再現です。力を試し、知恵を示し、二つの世界を繋ぎ、出生の秘密を認識することで、四精霊は復活します。夕日の沈む頃トゥーラを弾き、歌い踊るユバールの儀式とは異なります。
11 補足としての過去メザレについて
前編で触れるのを忘れていましたが、現行シナリオにおける過去メザレの不在理由について言及しておきます。
そもそも現行シナリオにおいて、天上の神殿の神の兵・末裔としてのメザレ・ユバールは同一の起源を持っています。彼らは神と魔王の決戦時に神殿の墜落によって天上と地上に分派し、その生き残りによってメザレという村が作られたとされています。
そのためメザレにはそもそも封印される過去が存在しない、というのが現行シナリオでの過去メザレ不在の説明となるでしょう。
なるのでしょうが、この説明はそっくりそのまま、過去ユバールの違和感も示します。ユバールもまたメザレと同様、封印される過去が存在しません。この理屈が一貫するのであれば、過去メザレが存在してもよく、もしくは過去ユバールが存在することは不自然です。
もちろん辻褄合わせで、多少の整合性の取れなさは承知の上です。ただしそれがどうも物語の根幹となる神と魔王に携わるユバールとメザレにのみ適応されている点は、それを前提とする物語を構想しようとする場合、決して無視できない問題となります。
要は、フォロッドやグリンフレークの人間模様に多少の不整合があったとしても初期構想考察に支障はないわけです。メザレだからこそ掘り下げています。
メザレがユバールと異なり定住した神の兵である点、メザレとユバールが別れた経緯がぼかされている点からも、過去メザレが初期構想には存在したことを仮定します。
*長くなったので、今回はここまでです。前後編でまとめる予定が全然話を進められず、再開の過去ユバールの論も長くなりそうなので。
ドラクエ7 初期構想考察まとめ前編
長大かつ非常に複雑なドラクエ7。プレイ時間にして100時間を超すボリュームを誇りいくつもの時代・世界を巡る物語。
堀井氏がどれだけ天才的なシナリオライターであろうと、製作の極初期の段階から現行の物語を無から瞬時に生み出せたとは、流石に考えにくい。
これほどの層の厚みを持った物語には、それ相応の構想の転換が複数回あったと考えるのは自然なことだろう。
巷ではよく『オルゴデミーラ=キーファ説』というデザインがそれとなく似ている程度の根拠のない風説が流布している。だがそれもある意味仕方のないことかもしれない。現行シナリオにおけるキーファの扱いは、構想の変更がなかったとは考えられないほど、不自然な形で放置されている。
他に私が奇妙に感じる主なポイントは、『主人公と水の紋章』『四精霊の扱い』『5人いるパーティ構成』『ユバールの民』『存在しない過去のメザレ』『神の復活』だ。
今回初期構想を考察する上での原則は以下の通りだ。
・物語上、最も核となるアイディアを特定する。
・核となるようアイディアから極力シンプルな肉付けを行う。
・その上で矛盾が生じる場合、構想の転換を行う。
・最終的に現行シナリオに辿り着く構想の転換を示す。
ドラクエ7は、私が一番好きなドラクエ作品だ。堀井氏のライターとしての技量が詰まった作品だと強く感じる。
だからこそ、どのようにこの作品が作られていったかを、完成された作品から逆算し彼の構想を追体験する形で、その妙味を少しでも感じることができれば、私は嬉しい。
1 核となるアイディアはどこにあるか?
ドラクエ7を層ごとに分類する際、最も根源的なアイディアはどこにあるだろう?
他シリーズの核となるアイディアは比較的分かりやすい。
1ではシンプルなRPG紹介としての竜退治。
2は世界の拡張とパーティバトルの面白さ。
3はロト伝説ではもちろん握られた上で、父を追い超え英雄となる子がベースにある。
4はオムニバス形式による仲間及びAIの強調。復讐劇の対立はある種オムニバス形式の二次的な作用だ。
5は親子三代に渡る大河ドラマだ。前記事で詳しく考察したので、興味があればぜひご覧いただきたい。
6については、他の方の考察記事になるが、バーバラと黄金竜をベースにした三題噺と異類婚類譚と読みたい。強いて言えば、自分探しから物語を出発させたと私は考える。
さて、今回考察するのは7だ。
ラスボスの設定は構想を考える上で、かなり重要な地位を占める。というのも大魔王の目的は、主人公の冒険における動機に直結する。冒険を駆動させる原動力であり核となる設定は、物語の着地地点であるラスボスを見ればよく分かる。構想の最初に決まるのは、スタートとゴールだ。
そこで言うと、世界に一つだけの楽園エスタード島という設定は最初期から存在したと考えても差し支えないだろう。
平和で満ち足りた楽園。けれどどこか物足りない主人公。彼は好奇心から異なる世界を探求(クエスト)し、遂には新たな世界と、世界そのものに隠された秘密を探す旅に出る。
面白いのは、エスタード島の主人公たちが特別な使命を負って冒険に出るわけではない点だ。彼らは平和で満ち足りた楽園で生まれ育っている。そして世界にはエスタード島しか存在しないことを島の誰もが受け入れている。
世界には本来複数の島や大陸が存在していたが魔王によって封印されてしまったという知識を王などから知らされ世界を救う冒険の出発点に置いても全体の構成はさほど崩れない。
けれど彼らはそういった他者から要請される使命感からではなく、自発的な好奇心から島の謎を解き冒険を求める。
この自発性への全面的な肯定は現行のドラクエ7の通底を流れる主題でもあるため、この満ち足りた唯一の島という素晴らしい舞台設定から物語を構成したと考えたくなる。ドラクエ7は珍しく、物語の原型となる出典元が明示されている。エデンの戦士たち。聖書だ。エスタード島がエデンの園をモチーフに構成されたことに疑いの余地はない。失楽園の構造を流用している点からも支持したい。
したいのだが、前述の通り構成上、王などから世界再興の任務を言い渡されていた場合にも、世界を救う物語は駆動する。
最初期の構想段階からこの主題をぜひ握っていてもらいたいが、それを考察するためにはひとまず、現行シナリオの大筋を見ていかなければならない。
概ね次のようになるだろう。
「魔王は世界を征服するため、世界の中心にある小さな島を除く全てを封印した。世界に唯一残ったエスタード島では何も知らぬ人々が楽園を享受していた。水の精霊の加護を受け生まれ落ちた主人公は、世界の小ささに窮屈さを覚え親友と共に禁足地の謎を解き明かし、封印された過去の世界を救う旅に出る。親友との別れを経験しながらも主人公は仲間と共に世界を解放していく中で、平和な現代にいるはずの魔王の不在についての謎を追う。遂には全ての世界を救い、神にまで勝利した魔王の打倒に成功し、ユバールの民の儀式によって神が復活する。ところが世界は再び封印され、平和だった現代も魔物が蔓延る世界になってしまう。主人公たちは四精霊の力を借りてもう一度封印を解き、復活した神の正体こそ魔王だったことを暴く。一行は今度こそ魔王を打ち倒し各々の日常へと帰っていく。時を超えて届いた親友からのメッセージを胸に抱いて」
この構成は端的に複雑極まりない。とは言え、Diskで別れ二度魔王と戦う点から、過去の魔王の打倒と現代に蘇る魔王の打倒の二部構成と捉えられる。
設定の複雑さに輪をかけるのは、一行が行き来するのが『行ったことのない新しい世界』であり、それでいて『魔王による封印前後の過去の世界』である点だ。さらに封印を解くことで『現代に蘇った新しい世界』が現れる。別世界を行き来する物語や、限定的に過去に戻る物語はシリーズでもいくつか存在するが、とりわけ過去に戻るタイムスリップを話の根幹に持ってきているのだ。
何せ重要な設定である『なぜ神は魔王に負けたはずなのに現代は平和なのか?』というクエスチョンに『主人公たちが過去に戻り神撃破直後の弱った魔王を打倒したため』というアンサーを用意しているのは印象的だ。そして同時に、この箇所はかなり奇妙に浮いている。
というのも、過去の世界の封印は主人公の介入によって元凶を討伐するという歴史改変によって解かれる。ところが過去の魔王打倒のみ、主人公たちの介入が歴史の既定路線として織り込まれている。
この異なる時間旅行が必要とされた理由は分かりやすい。この時点での魔王打倒は明確に現代の平和、エスタード島がなぜ楽園だったのかを理由を説明するために準備されている。
自由意志的な匂いの強い歴史介入と比べ、過去の魔王打倒を巡る構成は運命論的だ。掘り詰めて考えていけば、主人公たちが世界を救い魔王を打倒することは、実のところ運命によって既に決定付けられていた。
魔王が現代に復活し再度打倒する流れは、この決定論の香りを薄めるためだろう。主人公は運命によって導かれただけの存在ではない。自分の意志で冒険に出ることを選んだのだ。
しかし初期構想から二度、過去と現在それぞれで魔王を討伐する複雑な構想が握られていたとは考えにくい。なぜなら過去に遡った魔王打倒がなくとも神の復活に繋げられるのだ。
何より初期構想の段階から『過去の世界に渡り魔王の封印を解く』という自由意志的・自発的・能動的な主題が通貫していたなら――石板システムを構想後期に発案したとは考えられない――介入を規定とする『別種の時間旅行』をエスタード島の平和のためだけに初期構想の段階で盛り込んでいたとは、正直に言って想像しづらい。
特に、魔王の復活というアイディアはその実、本編開始時の世界でも魔王が完全には滅んでいないという実情を浮かび上がらせる。主人公たちが何もしなければ半年後に魔王が異世界から復活し、エスタード島までも封印し世界征服を完了していた可能性があるのだ。
現行のシナリオは複雑なため、特に神と魔王絡みの時系列を把握することが難しいため整理しないまま物語を進行する人も多いだろうが、現行の設定は極めて深刻な危機を示す。
すると一つのシンプルな疑問が思い浮かぶ。
「エスタード島が平和な楽園である理由は、本来別で用意されていたのでは?」
2 エスタード島の平和
先に、決定論的な構想が先行していた線を消していこう。全ての時間旅行が既定されている場合だ。この場合主人公の性質は恐らく自発的な好奇心ではなく、世界を救う任務を与えられた使命感によるだろう。
とは言え、これはまず考えられない。過去の魔王同様に歴史介入が既定されているのであれば、世界は冒険開始前から救われている。現状を変えることのないこの構想は石板システムとは全く相容れない。『主人公たちの介入によって救われる世界』は、ドラクエ7において最古層と見て問題ないほど根幹に存在する構想だ。
では、エスタード島が平和な楽園である理由はどのように構想されたと考察可能だろう。
複数案が考えられる。
A そもそも唯一残る平和な楽園ではなく、他世界同様に封印されていた。魔王は他の地域を封印するため奔走。物語は歴史介入ではなく単なる地域移動によって進んでいた。
B 魔王はエスタード島を封印する直前で神と相打ちとなり、異世界で復活を待っている。
A案は論外だろう。現行のシナリオの殆ど全てを潰す上、主題が全く明確でない。
一方B案は現行シナリオとほぼ同等だ。構成上も主人公たちが介入する必要がない分よりシンプルであり、石板システムとの噛み合いも良い。ちょうど『過去の魔王討伐』という構成が存在しなかった場合、B案として物語が進行していたと見て問題ない。
現行のシナリオはB案が破棄されたというより『勇者による魔王討伐』の強調のためだ。メルビンは神が魔王に破れたにも関わらず平和が訪れている現代に違和感を覚え、パーティに加入する。ユバールや天上の神殿では神が敗北した後に現れた勇者の伝説が残される。伝説に語られる勇者こそ自分たちだったという衝撃が前半部を締めくくる構成だ。
とは言え、現行構成はほぼ等価である相打ちであっても問題なく機能する。主人公たちの介入はゲームデザイン上Disk1を締めくくるために必要された大ボスの要請のため要請されている。
B案が採用された場合、強調されるのは現行の『魔王の不在』ではなく『神の不在』だろう。ちょうど構造が逆転するはずだ。現行の『魔王は神に勝ったはずなのに、なぜ世界は平和なのか?』に対して『神は魔王に勝ったはずなのに、なぜ世界は未だ封印されたままなのか?』という設問が物語を牽引する。
とはいえ神の不在を強調する設定は、神の復活を一族の役目として放浪の旅を続けるユバールの民の設定と相容れない。
ユバールの民の設定は神の死亡を前提とする。死ななければ復活はない。
それゆえ神の不在を全面に押し出そうとすれば、プレイヤーはこう思うはずだ。
「いや死んでるんでしょ? だってユバールの民が復活させようとしてたじゃん」と。
逆に言えばユバールの民の設定は、神の死を決定的に裏付ける役割を担い得る。
現行と逆転したB案で物語が進行していた場合、ユバールはダーマ直前という物語の序盤ではなく、むしろメザレやメルビンを経由した物語後半部に配置されていたはずだ。
ともあれ、初期構想において物語を牽引する謎が、本来魔王の不在ではなく『神の不在』だったと仮定するところから出発する。
3 ユバールの民と神の復活
ユバールの民による神復活の儀式は、作中で二度も描かれながら失敗続きだ。裏ダンジョンまで行けば神は実際には死んでいないことが分かり、復活の儀式が成功しなかった理由も説明されるが、どうにも根本から間違っているユバールの民の役割はちぐはぐしている。構成上彼らが担っているのは、神ではなく数百年ぶりの魔王復活に他ならない。
初期構想の段階からユバールの民を考案していたなら、ここまで無力で利用されるだけの存在として配置しないだろう。『オルゴデミーラ=キーファ説』などが飛び出てくるのは、ユバールが現行シナリオにおいて実質的に魔王の側に立たされているためだろう。
とは言え、彼らが復活の儀式を行う存在として構想されていたであろうことも確かだ。ここまで物語の根幹である神と魔王に関係する設定は他にない。
だが彼らが初期構想で『魔王復活を目論む民族』として設定されたとも考えにくい。
すると確かにユバールは『神復活を宿願とする民族』として構想されたのだろう。この構想が初期から存在するのであれば、物語は『神は魔王によって殺された』ことを前提に組み立てられて然るべきだ。
この前提が初期構想において神と魔王の構造が逆転していた根拠の後ろ盾となる。繰り返すが現行の物語において、現代の平和に纏わる謎として提示されているのは神の不在ではなく『いるはずの魔王の不在』だ。
神は魔王に敗北し殺された。なのに理由は不明だが勝利したはずの魔王がおらず、エスタード島は平和の楽園として残っている。魔王はどこへ消えたのか?
構造がそっくりそのまま反転しているため分かりやすいが、どちらにおいても『過去に戻り魔王を打倒する』構想は特別に要請されない反面、どちらにおいてもそれを導入する余地が残されている。
もちろん展開的にこのまま現行シナリオに合流することも可能だが、別の構想が握られていた可能性も捨てられない。物語に登場した銃は発砲されなければならない。
つまり実際にユバールの儀式によって、魔王ではなく死んだ神が復活するというシナリオだ。無論、神の死と復活はキリスト教の基本だ。ユバールの民がユダヤ民族をモチーフにしているであろう点からも、神を主軸とした物語を構成する上で相当に聖書をリブートする動きが垣間見える。
逆に言えば、そうでなければ物語を二部構成に分ける必要がない。過去において魔王が打倒されてハッピーエンドで終わるのであれば、そもそもユバールの民自体が必要ない。
現行のシナリオでは魔王打倒後に神を復活させようと多くの人間が画策するが、本来ここで物語を締めくくっても構成上の問題は存在しない。
神の不在を全面に押し出す構成の利点は、神復活を起点とした二部構成の必要性を説明可能とする点だ。「相打ち」だの「過去の魔王打倒に見られる運命論の不自然さ」を長々と語ってきたが、主人公による定められた魔王打倒こそ現代の平和の理由であるという構想は初期段階から存在しただろう。なにせ主人公が一度も戦わずに退場してしまう魔王など、ゲームデザイン上理解しがたい。構成上は相打ちで済ませられるにも関わらず、運命的な時間遡行の要請は『それがないと主人公が魔王と一度も戦えない』場合に強烈に起こる。
私は、神の復活から始まる二部構成こそ物語の最古層を占める土台だったと考察する。
要するに、魔王だけでなく神を打倒する物語だったのではないかと、私は考える。言ってしまえば女神転生におけるカオスルートとロウルートのどちらも選ばず、人に注力するニュートラルを選択するような物語だ。自由意志を肯定する主題もそれを支持する。
とは言いつつ、何度も繰り返すように堀井氏は優れた脚本家だ。モチーフ元から単純に引用したわけではもちろんないし、そうであったとてモチーフから構成を直接割り出すことは、今回の初期構想考察の原則に全く沿わない。考察には根拠が必要だ。
この妄想に根拠をどれだけ与えられるか、試してみよう。
4 石版世界の時系列
過去世界を物語の時系列上に配置する際、重要なのはその順序が簡単に入れ替え可能な点だ。二番目に訪れる世界であるエンゴウと4番目に訪れるオルフィーが入れ替わっても、構成上大きな問題は起こらない。
そして切り取られた過去世界と現代の時間の流れはリンクしているという設定が存在する。過去世界のエンゴウに戻るエピソードなどで確認できる。
また、各地域が封印された時期にはそれなりに大きなズレと人物の結びつきが確認できる。ユバールのジャンがハーメリアでは老楽師として年齢を重ねていたり、グリンフレーク関連の人物模様がリートルードから訪れた際には年月が経過しガラリと変化した様子が面白い。プロビナとレブレサックの神父は後に訪れるレブレサックが時系列的に先行する。
さて。世界を巡る順番の殆どは確かに順不同だが、中には構成上、配置されるタイミングが重要となる世界がいくつか存在する。ゲームバランスを左右する仲間の加入時期とダーマ神殿。そして神と魔王の秘密に関係するエピソードの挿入時期――具体的にはユバール。そして、メルビン加入の出発点となる神の兵の子孫たちが暮らすメザレだ。
神の不在の前提に立つ物語が初期構想に握られていたのなら、ユバールという存在は、神の不在に疑問を浮かべるメルビン加入の後に明かされて然るべきだ。このときユバールは、現行シナリオにおける過去での魔王討伐を事前に予告する役割を果たす。神は負けたと。だからこそユバールは神を復活させるための儀式を何としてでも行うのだと。
注目したいのは、この構想に立つ場合も現行シナリオにおいても、過去世界のユバールは物語上特に必要ではない点だ。「おいおい、ならキーファはどこで抜けるんだ?」と声が聞こえてきそうだが、逆に言えば、女にうつつを抜かすキーファ離脱は初期構想において存在しなかった可能性が極めて高い。
むしろ現行シナリオでの過去ユバールはキーファ離脱以外の役割を何一つ果たさない。ユバールの設定が物語に影響を与えるのは、神の死を告げ、それに伴う現代の平和の不自然さを語る場合に限る。端的に、過去ユバールは初期構想に存在しなかった可能性が高い。少なくとも、現行におけるシナリオとは異なった展開が予想される。
根拠は複数ある。まず第一に、過去ユバールには封印の元凶となる魔物が存在しない。一行はユバールの儀式を見届けキーファが離脱することで、なぜか休息地周辺の世界を解放している。他の世界ではダイアラックという少々の例外を除いて、封印の元凶となるエリアボスの討伐による歴史介入を行い世界を解放している。例外である既に滅びた町ダイアラックでさえ、天使の涙の使用という介入によりヨゼフを戻すという歴史改変を行っている。ユバールにはそういった封印からの解放という基本原理に繋がる要素が存在しない。
第二に、ユバールはそもそも定住の地を持たない放浪の民族だ。現行シナリオにおいてこの設定はキーファ離脱後二度と会えないという強い喪失感と、アイラの登場時期を調整する役割を担っているが、そのどちらにもそうなる合理的な理由がない。
放浪の民という設定はむしろ、過去世界に特定の地域を解放せずとも現代に現れる集団を配置するのに都合がいい。なにせ彼らは定住しないため、どこにいてもいいのだ。
逆に過去が描かれることなく封印が解かれ現代に配置された特殊な集団が存在する。奇しくもメルビンに直結する神の兵の末裔たちが住む町メザレだ。メザレはダーマを解放した際におまけのように解放される。しかもメルビンと絡む、物語上の重要度が極めて高い町だ。過去世界のメザレは違和感を解消しないまま放置されている。これは奇妙な構成だ。
そして第三の根拠だ。過去ユバールでのキーファ離脱は構成上の役割を持たない。彼は恐らく初期構想から離脱を前提に組み立てられたキャラクターなのだろう。でなければこの強制離脱が省略されても、物語は何の問題もなく進行していく。離脱がある理由から要請されたからこそ、彼は初期構想とは異なる過去ユバールにおいて乱雑に処理されてしまった。
二度に渡る儀式の失敗。魔王が活動する過去世界において、神の死を前提に復活を宿願とする民族が配置される違和感。時系列を追えば当然だが魔王の活動時、神は生存している。エスタード島を除く全ての世界が封印されてから神と魔王は争い、両者は沈黙したのだ。ユバールが過去世界において取りうる役割は神の復活ではなく、むしろ神の死を知ることだ。
5 過去メザレには何があったか
ユバール以外に神と魔王の争いを直接観測可能な役割を持つ集団が二つある。一つは現行にも残る天上の神殿にいる神の兵の末裔と、同じく神の兵の末裔であるメザレだ。
天上の神殿にて神の祭祀を取り仕切る巫女から、ユバールの儀式に必要な清き衣を渡される点からも、この三者が同一のルーツを持つことが伺える。関係性が深い上、彼らが別れたのが神と魔王の決戦前後であったことが示唆されている。
メザレでは神が魔王に敗北したことを既知の伝説として主人公たちに教えてくれる。名称もイエス・キリストの育ったナザレをモチーフとしたことが伺える。
先に結論を言うと、本来は過去のメザレでキーファが離脱したと私は考察する。彼はユバールの守り手としてではなく、神の兵として魔王決戦に参加するため、自発的な好奇心に突き動かされた冒険ではなく、他者に定められた大きな使命感を選んだ。だからこそ彼は主人公とは異なる道を歩むことになる。
主題は最初から最後まで流れ続ける。ドラクエ7という物語は常に自発性と好奇心を肯定し、遊びこそが世界を救うことを示す。職業として常にあり続けた遊び人がなくなり、生粋の遊び人であるホンダラが度々物語の鍵となるアイテムを手に入れることも主題ゆえだ。主人公はそもそもが遊び人であり、求められる役割から逸脱しようとするキーファやマリベルも同様だ。彼らは他者の規定する使命ではなく、自己から湧き出る面白さという欲求のために旅を続ける。主人公は世界を救うために旅をするわけではない。色々な世界を巡っていたら、たまたまそれが世界を救うことに繋がっていたに過ぎない。少なくとも冒険の序盤において、主人公たちの冒険の動機はそのような自発性に突き動かされて進んでいく。
裏を返せば、性根が遊び人ではない人物は主人公一行には相応しくない。現行シナリオにおいてもキーファ離脱の理由を突き詰めればここに行き当たる。何かの使命を負った人物は主題から外れるためパーティを抜けざるを得ない。
キーファ離脱が初期構想から存在したと考えられるのは、この対比の美しさゆえだ。彼の離脱は『主人公が遊び人であることの強調と、いつまでもそれでいいのか?』という疑問を提示するところにある。職業を選ぶダーマ神殿が離脱直後に配置される点も理解できる。
過去メザレのシナリオを完全に再構成することは困難だ。けれど大筋として次のような情報が提示されたことは推測できる。
・魔王によって封印されたメザレでは、神がこれから魔王と決戦を挑もうとしている。
・一行がメザレを封印する魔物を討伐し解放され、神の兵たちは決戦に参加しようとする。
・キーファは神の兵たちと合流し、使命を負ってパーティを離脱する。
・現代のメザレでは、神が魔王に勝利した伝承が伝わるが、同時に不在の神へ疑問を持つ。
この過去メザレが構成上配置されるタイミングは微妙だが、ユバールが世界を全て解放する終盤前後に現代に配置されるため、少なくともそれ以前だと考えられる。
6 5人いるパーティ構成
そろそろパーティ構成の不自然さに言及する必要があるだろう。
なにせドラクエ7の仲間編成は異常だ。最終的に5人いながら、連れ回せるのは4人まで。残った一人はマリベルの家で待機。馬車はもちろんない。どうも初期構想におけるパーティの人数はちょうど4人になるよう設定されていたように思われる。というより、そうとしか考えられないほどこのパーティ人数はおかしい。
マリベルが会話システムの導入に伴い考案された人物という話が堀井氏本人のインタビューから分かっているため、元々マリベルがいなかっただけと考えることも出来るし、あるいはマリベルの途中離脱もキーファ同様完全なものだった可能性も否定しきれない。
だが単純にマリベルを除外するだけで問題が解決するほど、パーティ構成の不自然さは簡単な問題ではない。この問題はゲームデザインの問題と直接関係する、ある意味では物語の些細な矛盾点などより制作上よっぽど解決しなければならない課題点だ。序盤の段階でパーティが4人綺麗に揃うドラクエ8の構成とは対照的だ。特にドラクエ7には転職を行うダーマ神殿が存在する。パーティ編成の整うまでのスピードを間違えると致命傷になる。
堀井氏によればキーファ離脱はより後期に行われる予定だったという言もあり、なおのこと当初想定されていたパーティ構成は謎に包まれている。
ガボの加入タイミングに文句はない。後述する四精霊の点から多少の疑問もあるが、彼の加入時期とその後に離脱しない点は一つの指標に成りうる。
問題はキーファ離脱後にしばらく3人パーティでの冒険が続くことだ。ダーマ、砂漠、クレージュ、リートルード、ハーメリア。ようやく加入するメルビンと、いつでも挿入可能なマリベルの離脱と入れ替わるようにアイラが加入するのは既に終盤に差し掛かった頃だ。
さすがにガボとの二人旅で5つの世界を旅する構成だったとは考えられない。すると前項の過去メザレ仮説を導入することで、ある程度本来の構想に説明がつく。
要はキーファとの入れ替わりでメルビンが加入する構想だ。もっと言えば、『神と魔王の決戦時に封印されたメザレの英雄』をキーファだと期待してホットストーンを巡る構想が存在した。メルビンの加入が遅れる原因は魔法の絨毯と人魚の月を交換するわらしべイベントのためだが、この交換には物語上の必要性がない。魔法の絨毯によって行ける世界一高い塔もハーメリア地方に存在するが、過去のハーメリアには世界一高い塔が存在しないなど、さじ加減次第でどうとでもなる要素が多い。なにせ肝心要のホットストーンは物語開始時点でホンダラが所有しているのだ。ブルジオを経由する構成も、特別必要な訳では無い。
現代のユバール族が冒険の終盤に登場する点も、アイラの登場時期とよくリンクする。強いて言えば初期構想における第二部はもっと長く、逆に第一部の石板を巡る物語はもう少し短かったのかもしれない。石板を配置する台座は赤と黄は5つあるのに対し、緑と青は4つしか存在しない。1色につき3~4つの台座が想定されていたのかもしれない。本筋と直接関係しないため消すことの出来るエピソードは複数存在する。ダイアラック、フォロッド、グリンフレーク、クレージュ、リートルード、ハーメリア、プロビナ、ルーメン、マーディラス、レブレサック……ちょうど3人旅になり得るタイミングの冒険の殆どは省略可能だ。
だが結局のところ、4人パーティにはマリベルの加入と離脱が必要となる。
なぜの問いかけを少し変えよう。5人いるのはどこかおかしい、ではない。結局のところ現行の物語では5人を許容して物語を進行させている。問題の本質はそこではない。
なぜ、パーティの人数は4人として決まっていたのだろう。人数には何か理由があったのだろうか?
7 四つの紋章
主人公は水の精霊の加護を受けており、水の紋章を持っている。終盤に実の父である海賊シャークアイから紋章の半分を引き継ぎ、主人公は完全な水の紋章を腕に宿す。主人公は水の精霊より授かった水竜の剣をコスタール王から譲り受け、専用装備として振り回す。水の精霊の加護があるため、主人公はキーファにも読めない謎の神殿の古代文字が読める。
私は最初にプレイした時からずっと、この主人公の設定が疑問だった。
「水の紋章? なら炎の紋章や風の紋章を宿す人物が他にもいるんだな?」
なぜなら主人公単独に特別な権威を持たせようとするのなら、わざわざ四精霊の一人という中途半端な権威を借りてこずとも、直接神に選ばれた存在とすれば済む話だからだ。ロトシリーズや天空シリーズなどでは実際に主人公は唯一無二の存在から選ばれている。水の精霊が選ばれたのは、他にも精霊の加護を受けた人物が他にいるからだ。
実際、大地の紋章を持つ人物としてまさしくアイラとその先祖ライラが存在する。
ところがゲームのどこを探し回っても、炎の紋章と風の紋章を宿す人物は存在しない。
とはいえ風の精霊の加護を受けた人物なら存在する。聖風の谷のフィリアとセファーナだ。彼女たちは風の紋章こそ話に上がらないが、翼を未来の子孫に送るなどと精霊の加護そのもののような特別な能力を有している。彼女たちは仲間にならずともまだ分かる。
では炎の紋章は? そうでなくとも炎の精霊の加護を受けた人物は?
いないのだ。どこをどう引っくり返し世界を探し回っても、該当しそうな人物もいない。
前置きが長くなったが、私は4人パーティが決められた当初の理由を、各紋章を持つ人物に割り当てる構想を握っていたためだと考える。無論、四精霊が活躍するのは魔王を倒し神の復活した第二部にかけてだ。現状の仲間の誰でもなく想定されていた仲間がいた。
四精霊に対応する三人の仲間がいて、第二部は彼らと共に精霊の力を借りる冒険が繰り広げられる予定だった。この時、敵対するのは神であるため、神と直接結びつく存在は考慮に入らない。具体的にはメルビンだ。彼の離脱は第二部の動きからも想像しやすい。
ガボは白き狼の生き残りであり、それ以上に特別な掘り下げも存在しないが、離脱の要因も考えにくい。特別な出自も相まってもう少し物語的な掘り下げがあっても不思議でない。少なくとも何十時間と冒険を共にしたガボを退場させてセファーナを加入させる展開よりかはずっと納得がいく。
ならばマリベルを炎の精霊と関係させればよいのでは? なにせ他に人物がいない。
しかし彼女は前述の通り、構想の後から会話システムのために用意された人物だ。実際、ゲームバランス上の問題を除けば、彼女が丸っ切りいなくとも神の復活を巡る物語の構想は充分に成立する。
突き詰めれば、この跡形もなく消え去った初期構想における「炎の人物」の存在こそ、第二部における核となり、初期構想におけるゲームデザインを支え、物語を駆動させていた。
誰だろう?
たとえば、キーファとか。
*長くなったので、今回はここまでです。
本当は一回でまとめたかったのですが、書いているうちに膨れ上がってしまいました。
特に後半部の根拠を説明しないまま話を進めたため大分雑になっていますが、四精霊の構成上不自然な点と絡めて説明できればと思っています。続きはそのうち。
ドラクエ5 初期構想考察まとめ
『はるか昔、邪悪なる意思により復活をとげた大魔王は、自らを究極の生物に進化させようとしていた。しかし、根絶やしにしたはずの勇者の子孫は生きていた。そして数人の勇士と共に大魔王の意思を打ち砕き、世界に平和をもたらしたのだった。――それから数百年。この広大な土地を旅する父と子の姿があった。父はなぜ苦悩の旅を続けるのか? 天空の血を引いたはずの勇者の行方は? あなたの冒険が今、始まろうとしている…』
この説明は、説明書にて描かれるドラクエ5のあらすじです。
一見して前作の物語から数百年後が舞台であり、勇者の血筋を追う物語に見えます。
ところが、実際にドラクエ4と5の物語を考えると、この粗筋は奇妙に思えます。
この記事は、この説明書の記述をベースに初期構想を考察もとい妄想し、ドラクエ5の少し歪な箇所を説明しようとする試みです。
1 核心にある初期構想
現行のドラクエ5において最も重要なのは、親子三代の物語という点です。
父と子、そして結婚と出産。自身の息子こそ勇者であったという衝撃の構造。
はっきりと、この家族の物語という観点は、ドラクエ5という物語の主題です。
この主題から物語を駆動させようとすると、確実に必要となる登場人物も決まります。
つまり主人公と父親、配偶者と、勇者として生まれてくる我が子。この四人は確実です。
逆に、物語から弾き出されてしまった人物――母マーサを旅の目的に持ってきたのもよく分かります。ドラクエ5が母マーサを探す旅の中で、世界を副次的に救うべく、スケールが極めて小さくまとまるのは、物語の主題を家族から抽出していなければ説明が尽きません。つまり、大魔王の設定や天空の勇者に纏わる物語から世界観を構築しているのなら、物語のスケールはドラクエ3や4のように大きく深刻なものへと広がっていくはずです。
ドラクエ5における大魔王の役割は、マリオにおけるピーチ姫を攫うクッパと同等です。母マーサを攫う大魔王。父と子は母を探すため大魔王を打ち倒す勇者を探す旅路に出る。
探求(クエスト)はドラクエ5で重視される観点です。主人公は母を探し、父の旅の目的と足跡、もういない後ろ姿を追い、勇者を探し、自らが何者かを探求し、母のように攫われた妻を探します。我が子はいなくなった主人公を探し、かつての父がそうしたように我が子を連れて妻を探す旅に出ます。構成上、母ではなく妻が先に見つかるのは当然です。母マーサの探求は大魔王の打倒と完全に一致するためです。
さて、ドラクエ5は4と6に合わせて天空シリーズと呼ばれています。天空城や天空の武具などの繋がりからそうされています。
ところで初期構想の『親子三代の物語』から考える場合、前作の要素は必ずしも必要とされません。物語上確実に必要とされる設定は『血統により選ばれる勇者』の要素です。
この点は『天空の血を引いたはずの勇者の行方』を追う物語に読み取れます。
……問題は、それ以外に前作と繋がる必然性のある要素が存在しないことです。
つまり、構想の最初期において、ドラクエ5はドラクエ4と繋がりがなかった可能性。
と言うよりかは、本来関係のなかった二つの世界を、後から結合したと考えられる。
そういう根拠を説明したいと思います。
2 ロトシリーズという繋がり
ドラクエ1~3はロトシリーズとしてよく知られ、アレフガルドを舞台とし、伝説の勇者ロトを巡る英雄叙事詩のような物語です。この三作が確実に同一の世界だとプレイヤーが判断できる理由は、アレフガルドの存在にあります。世界地図が同一で、世界に同じ名前がつけられ、同じ城があり、同じBGMが流れるのであれば、プレイヤーは容易に結びつけることが可能です。この仕組みがあるからこそ、大魔王ゾーマを倒した3主人公こそが1・2で語られてきた勇者ロト本人なのだと納得することが可能です。
ところが天空シリーズの世界地図はどれも根本的に異なります。同じ城や町もありません。例外的にして唯一共通するのが天空城及びクラウド城です。
ゲームデザインの観点から、これは非常に納得がいくものです。同じ世界を何度も遊ばせるのには限界があるためです。新鮮味がない物語は新作として不十分でしょう。ブレスオブザワイルドとティアーズオブキングダムの関係とドラクエ1・3の世界の扱い方はよく似ています。既知を前提として組み立てる。太陽の石の場所、ようせいのふえ、ゾーマ城の玉座……
3 天空城の墜落
逆に天空城のギミックで過去作との繋がりを強く示唆するものは南東部に空いた穴のみにあります。地上から邪悪な波動が発せられ雲を貫いたもので、4主人公一行はこの穴から地底を目指す。
現行のドラクエ5にて天空城が沈んでいる理由は、この穴から動力源であるゴールドオーブが落っこちたためだと説明されています。またマスタードラゴンであるプサンが20年以上トロッコに乗り続けて不在である。物語冒頭から青年期後期までの経過がおよそ20年程度であるため、ゴールドオーブは彼の不在直後に落ちてしまったよう構想されたらしい。
だが、この穴から物語を駆動させたとは到底考えにくい。ドラクエ5が4から数百年以上経った世界での物語でありながら、マスタードラゴンの失踪を直近に置くかのような設定と、その原因を数百年前から存在する穴に求めるのは、この構想が後期に付属的に加えられたものである何よりの証拠だ。
この穴を中心に持ってきた理由が、過去に戻るアイディアから逆算された構想というのは、その完成度と主題との整合性からもほぼ疑いようがありません。
とはいえ、それは特別天空城の浮上と関わるアイテムである必要はありません。初期構想においても、魔界への入場のために勇者とは別で必要になるアイテムであってもよかったし、プサンを人間からマスタードラゴンへと戻すドラゴンオーブであってもよい。むしろオーブの重要性から見て、神不在の天空城に勇者と共に訪れ、そこでプサンをマスタードラゴンへ戻すためのオーブを過去破壊されたと分かったと見た方が、似たオーブ探しの物語構成よりシンプルにまとまります。天空城の墜落はそれが必要だと要請されて初めて墜落させられたというよりかは、原案の時点で既に墜落していたものを流用した結果と見て取れる。
天空城を登場させようと初期から構想して、さらにそれを当初から沈めていたのであれば、その原因と時期は通常二つに一つだ。ドラクエ4直後にデスピサロの影響で沈んだか。あるいはドラクエ5直前にミルドラースの影響で沈められたか。
この構想の揺れ動きは現行のシナリオにも伺える。幼少期のラインハットにて、
「その昔巨大な城が天空より落ちてきたそうです。そしてそれ以来再び魔物が人間をおそうようになったと言われています。坊やには信じられますか?」」とセリフがあります。
ところが実際には、天空城の墜落は主人公の幼少期とほぼ同時期と設定された形跡・混乱が見て取れます。
物語上「天空城が大昔、ドラクエ4の物語からしばらくの平和の後デスピサロの攻撃による後遺症のため墜落した」世界観と「天空城が直近20年程前、レヌール城が魔物によって滅ぼされる少し前に、マスタードラゴンであるプサンの不在中に墜落した」世界観の二つが混在しているように思われます。光の教団が新興宗教として直近に活動を始めた点もそうです。
この齟齬に、天空城の設定が周縁的に付け加えられたものだと読み取ることができます。「世界がまだ平和だった時代、下界を見てマスタードラゴンはこうおっしゃいました。人間もなかなかよいものだな…。そしてお姿をおかくしになってしまったのでございます。ああ!その後数百年の間にこの城が落ちてしまうなど 誰が思ったでしょうか!天空にこの城があるかぎり平和は続いたはずでしたのに…」
この天空城のセリフは、この二者を軟着陸させるために曖昧に濁された説明です。ともあれマスタードラゴンの不在中に城は落ちた。天空城の墜落以後魔物が再び凶暴化した。リメイク版でのプサンのセリフに、城を出た時期と墜落の時期を特定させず、より古い時代に持ってこようとする動きは、この齟齬の融和を上手に誤魔化そうとする意図にあります。
さて。天空城がいつ落ちたのかを考察することは本題に入るため保留しておきましょう。
問題は、なぜ天空城という重要な物語の構成要素にこのような微妙な齟齬が存在するのかという観点です。天空城から物語を駆動させた場合、恐らく構成はこのようになりません。
4 天空城と関係のなかった本来の勇者の血筋
ここで、ドラクエ5から天空要素を完全に排除した上で、物語の主題を再構成することが可能かを見てみましょう。結論を言ってしまえば、それは非常に容易な試みです。
「大魔王に攫われた母マーサ。母を救うため、大魔王を打ち倒す勇者を見つける旅に父子は出る。ところが父は志半ばで倒れ、主人公は父の足跡と意思を受け継ぎながら、旅の途中で結婚し子を授かる。その我が子こそが伝説の勇者だった。主人公は我が子と共に旅を続け、遂には大魔王を打ち倒す」
この大筋は再構成どころか、現行のプロットそのものです。このとき、伝説の勇者が天空の勇者である必然性はありません。魔王を打ち倒す勇者の構図は、ドラクエの基本構造そのものです。
むしろ天空の設定は、母マーサの設定と非常に食い合わせの悪いものです。というのも、大魔王ミルドラースが彼女を攫った理由が『魔界と地上を繋げるため』だからです。家族から弾き出され最も根幹に置かれる彼女の設定が天空の血筋とは関係のないエルヘブンの能力という点は考慮するに値します。現行のプロットにおいて天空の勇者の力と関係なく魔界へ向かい大魔王を打ち倒すことが出来てしまう点も、この構成上の歪さをより強調させます。
つまり、物語上特異な能力を持つ存在が二つ、異なる出自を持っているのです。魔界と地上を繋げるエルヘブンと、天空に縁を持つ予言された大魔王を打ち倒す勇者。
通常、物語を構成する段階において、特異な能力の出自を複数準備することはしません。ラピュタにおいてシータとムスカが同一の末裔でありながら敵対するように。少なくとも初期構成においてはなるべくシンプルに筋が通るよう、必要な設定を少なく配置します。それは後から設定を追加するためでもあり、整合性が取れなくなる不安を極力減らすためでもあります。
この原則を踏まえて勇者と母マーサの繋がりを考えると、設定のより初期の段階で登場したのが前作を引き継いだ天空城の設定ではなく、魔界と縁深いエルヘブンの民だったことが考察できます。
というのも端的に、「魔界と地上を繋ぐ能力を持つエルヘブンの民」という設定が初期からあったとすれば、それは「魔界にて巨悪が現れし時、エルヘブンの勇者がその力でもって魔界へ渡り大魔王を打ち倒す」という構図が単純に構成可能なためです。そしてこの設定の単純さと根幹に根ざす重要性からして、エルヘブンの先行性が読み取れます。
そしてこの構成が破棄された理由も理解が容易いです。堀井氏は優れたストーリーテーラーです。親子三代の物語を考案した肝が、『探していた勇者は自分ではなく息子だった』感動にあると理解していたはずです。
ただこの構想の場合、勇者となるのはエルヘブンの血を引く主人公当人となるのです。
無論、主人公が勇者になれなかった理由を設定し、息子を勇者の条件を満たす人物とする設定を付与することも充分可能だったはずです。何らかの理由――たとえば、魔界の扉を開く勇者には女しかなれないとか――閉鎖的なエルヘブンの民と敵対的な民族との混血のみ勇者に成り得るとか――そんなような理由付けは充分に考えられます。
実際、現行の物語においても繰り返す通り、母を救う上で天空の血筋は必要ありません。本当に母を救うのに必要なのは三つのリングによる魔界への通行許可です。三つのリングを捧げる祭壇がエルヘブン道中に配置され、命のリングを通して母マーサが語りかけたように、明言こそされないもの、三つのリングが天空ではなくエルヘブンに属すアイテムであることは殆ど疑いようがありません。構成上の役割として、リングは魔界を繋ぐエルヘブンに属します。
天空城への通行を天空の勇者のみが成し遂げられるように、魔界への通行をエルヘブンの勇者のみが成し遂げられる。そういった構成はシンプルかつ明白です。
けれど堀井氏はそうしませんでした。
だからこそ、伝説の勇者の血統を別の出自で準備する必要性に迫られたのです。
5 部外者だった天空の花嫁
堀井氏の意図は明確です。彼は『妻』の重要度を極限まで高めたかったのです。
私はドラクエ5の初期構想を、恐らくこのような形式だったと推察します。
「エルヘブンという特殊な民族がいる。彼らは地上と魔界を繋ぐ能力を持つ特別な勇者の血族を有している。その能力は魔界にて大魔王が現れた時、魔界へ渡り大魔王を打ち倒すためにある。ところがある日、勇者の能力を持つマーサが大魔王によって攫われた。二つの世界を繋ぎ地上を侵略するためだ。マーサの夫パパスと息子である主人公は、マーサを救出するため勇者を探す旅に出るが、彼らは駆け落ち同然で婚約したため、エルヘブンの勇者に関する詳細を知らないでいる。大魔王の手先によって父パパスを殺された主人公は、父パパスが大魔王によって魔界に攫われた母マーサと勇者を探す旅に出ていたことを知り、同時に自分が勇者でないことを知る。主人公は旅の途中で結婚し、娘をもうける。その子こそが探し求めていた魔界への扉を開く勇者だった。成長した我が子と共に、主人公は魔界への扉を開け、遂には因縁の大魔王を打倒する……」
この筋書きは、母マーサの死の正当性をシンプルに描くことも可能です。大魔王は魔界と地上を繋げるために勇者マーサを攫ったのですから、我が子であるもう一人の勇者が魔界の扉を開いた以上、マーサの役割は終わります。父パパスが構成上亡くなる都合、母マーサを同様に死なすのは納得できます。生きていても特別問題は起こりませんが、作劇上の役割を失った彼女は大魔王によって殺されてこそ、最大のハイライトを浴びることができます。
この初期構想の最大の問題点は、重要であるはずの妻にスポットが当たらない点です。
現行のドラクエ5において最も語り草となっているのが結婚である点からも、妻の重要性が図り知れます。主人公にとって最も重要な存在は、自らの人生を選ぶ妻なのです。
実際、現行のドラクエ5において、天空の勇者を考えるうえで重要となるのは主人公ではなく妻の血筋にあります。ここに不均衡が読み取れます。ビアンカとフローラの関係です。
両者は共に天空人の血縁ですが、両者の関係は決して明言されません。とは言え彼女たちから生まれる子こそ天空の勇者の血筋なのですから、少なくとも現行において二人は親戚関係と設定されるのかもしれません。
ところが言うまでもなく、両者は別の人生を送り容姿も近いところはありません。これはゲームデザイン上当然の判断でしょう。容姿や境遇のそっくりな二人のどちらと結婚をするか選択することは葛藤を生みません。そして構成上ビアンカを選ぶべく露骨に誘導があるように設計されています。もちろん、最終的な選択はプレイヤーの自由に任されます。
この不均衡に『ビアンカとフローラこそ天空の勇者の末裔である』という構想が初期段階には存在しなかったと考えられる根拠を見出すことが可能です。それが根幹にあったのであれば、結婚に選択肢は与えられません。どうあがいても「そんな……ひどい……」と無限ループでビアンカを選ぶまで抜け出せない部屋に閉じ込められるか。そうでなければ、妻側には本来重要な血縁を用意していなかったか。
恐らく後者だと考えます。そうでなければ結婚という重要な選択イベントを用意する必要がないためです。本当にどちからをプレイヤーが選べなければ、ゲーム的に面白くありません。
また、選択の自由がプレイヤーに与えられていて、フローラを選択した場合ゲームクリアが出来ないようであれば話になりません。両者は名目上、設定的に対等な存在でなければなりません。
ところが、結婚の自由という選択肢をプレイヤーに与えるアイディアには、妻を代替可能な存在に貶めてしまうというデメリットが存在します。誰であれ子どもさえ産めれば問題ないのであれば、妻は構成上、産む機械以外の何物でもなくなってしまいます。
プレイヤーが悩み選択した人生のパートナーこそ、唯一無二の存在でなければなりませんでした。同時に、唯一無二のはずの存在が二人いる。その齟齬と違和感が二人には解消されることなく、今なお物語の中心に配置されています。
6 物語を乗っ取れなかった天空
この段階においてようやく、前作の天空要素の導入が検討されたのだと思われます。
つまり、血縁の重要性を二分したのです。魔界の扉を開くエルヘブンと、大魔王を打ち倒す勇者を、それぞれ別個のルーツを持つ存在に変えたのです。
前作と世界観を同一にするという発想は何ら不思議ではありません。なにせ1~3において、堀井氏は同じことを行いました。彼は充分にそのメリットとデメリットをよく理解していました。
何よりのデメリットは前述の通り、新鮮味の欠如です。またロトシリーズと異なり、4は登場人物が多く、繋がりを強く保つには本来の構想とは関係のない仲間たちの足跡まで描かねばなりません。現行のドラクエ5においてこういった要素は極力省かれています。
4及び5における世界地図の変動はこういった構想の変化により説明がつきます。本来二つは全く異なる世界でした。二つの世界は天空の勇者の必要性にのみ要請され同一の世界とされました。ロトではなく天空の勇者の血縁を採用したのは、1~3の連作でアレフガルドという同一の世界を描いたためです。ドラクエ5の世界は既にアレフガルドではありませんでした。続編として採用可能なのは残った天空の勇者だけだったのです。
無論、勇者の血筋とエルヘブンを分離するだけであれば、新しい勇者の血統を採用することも可能だったはずです。堀井氏はそこを敢えて前作から引用しました。
メリットは言うまでもありません。ロトシリーズでの成功体験。勇者の血統を担保する正当性への説得力。そして何よりも、ただでさえ本来の5における勇者の血筋であるエルヘブンの設定に加え、別個に予言された勇者のバックボーンを準備するのは端的に、物語が過剰に複雑になってしまいます。分離された勇者の役割はただ、大魔王を倒すことです。現行の物語においても、期待された勇者はその実特別な役割を果たしません。何ならパーティに入れずともクリア可能です。魔界への入場という本来の役割を三つのリングに奪われ、魔物を仲間にするというシステムの都合上パーティ離脱を許容された結果、彼は本来果たすべき役割を何一つ全うすることができませんでした。
なぜこのような構成になったのでしょう。なぜ、天空の勇者が絶対に必要となる物語構成がされなかったのか。ここまでの考察でぼんやりと理解できると思います。
天空の勇者の導入経緯は、妻の重要性を高めるための副次的な要素として魔界への入場と大魔王打倒が分離されたためであり、『なぜ天空の勇者が大魔王を打倒するのか』に対するアンサーを持ち得なかったためです。それは前作の引用によって『そういうものだから』と処理されてしまい、またそうせざるを得ません。
なぜなら本来そのクエスチョンには、『大魔王のいる魔界へ行くことができるのは勇者のみ』という強力な説得力を持つアンサーが用意されていたからです。分離された天空の勇者は『そういうもの』であり、『強い力と武器を扱える最強の戦士だからこそ最強の大魔王を倒せる』以上の解を持ちえませんでした。別に、他のドラクエでも勇者が大魔王を倒すことのできる理由は、究極的には単に強いからです。それ自体は問題ではありません。
構成上これが問題となるのは、天空の勇者を探す旅路と母マーサの救出という旅の目的の噛み合わなさです。物語の起点となるパパスの手紙にはこの不和が苦々しく残ります。
「(前略)私の調べたかぎり魔界に入り邪悪な手から妻を取り戻せるのは…天空の武器と防具を身につけた勇者だけなのだ。私は世界中を旅して天空の剣を見つけることができた。しかしいまだ伝説の勇者は見つからぬ…。【主人公】よ!残りの防具をさがし出し勇者を見つけ、そしてわが妻マーサを助け出すのだ。」
物語を進めた人間なら誰もが気付きますが、どうもパパスの調べは甘かったようです。実際に魔界へ入り邪悪な手から母マーサを取り戻せるのは、三つのリングをエルヘブン近郊の像に捧げた人物です。現行の物語において、パパスは見当違いの天空の勇者の伝説を頼りに旅路を始め、主人公もその誤った足跡を辿ることとなります。(もちろん現行の物語における構成も美しいものです。父の遺言を知り後を追うだけだった主人公が、自らの意思でそこから逸脱する道筋そのものが正解だったという構成。ビアンカとフローラの選択は実質的に、天空の盾を絶対に手に入れるか、父の意とは何だったかに思いを巡らす選択です。ビアンカを選んでも天空の盾は結果的に手に入りますが、それは選択時には分かりません)
この間違った方針もまた、天空要素を後付けした理由と見て取れます。というのも、パパスの探し物が正しい場合、次の二択になるためです。現行はどちらとも異なりますが、後者の設定はどちらかと言えば現行案に近しいものです。
・本当に天空の武具を身に着けた勇者だけが魔界に入ることができる。
・魔界に入る方法は勇者と関係なく存在するが、魔王を倒せるのは勇者だけ。
前者に物語を再構成出来なかった理由は、既に物語の中枢から切り離せないほど根深くエルヘブンの設定が染み付いていたからでしょう。とは言えやろうと思えば、魔界への入場切符をリングではなく天空の武具にすることも可能でした。ひょっとすると、勇者しか入場できない天空城に魔界への入場切符のようなものが配置される予定だったかもしれません。
そうしなかったのは既に、魔界の扉を開く人物として大魔王と強く結びついてしまったエルヘブンのマーサがいるためです。エルヘブンも天空も、どちらでも魔界の扉を開くことができるのは問題です。ラピュタの王族の末裔であるシータとムスカだけでなく、ラピュタと関係のないパズーまでラピュタを起動することが出来てしまっては、物語の根幹が崩れ去ります。扉を開くのは、エルヘブンだけです。
すると天空を導入した際には、後者をベースに再構成を始めたはずです。魔界への入場はエルヘブン縁の特別なアイテムに任せ、魔界の門を守る強力な敵は勇者しか倒せないとか。この案はデモンズタワーで天空の力を発揮するビアンカとフローラに垣間見え、妻に眠る天空の力が強敵ジャミを弱らせることで、主人公はようやく打倒に成功します。
ところがある段階でゲームデザイン上――間違いなく仲間モンスターシステムでしょう――パーティ編成に自由を効かせる必要が浮上しました。そこでパーティから勇者を外すことが出来るようにした。勇者がパーティにいない可能性があるため、勇者がいなければ突破することの出来ない強敵は(少なくともゲーム上は)登場させないことにした。結果論として、パパスがあれ程追い求めた勇者はスライムナイトと代替可能な存在に置き換わった。
勇者の矛盾はこう説明できます。逆にそれ以外の説明は困難でしょう。仲間モンスターシステムが採用されなければ、勇者はもう少し物語で存在感を発揮していたでしょう。
魔界への入場切符を三つの出所不明なリングにした点も同様です。それは原理上明確にエルヘブンに属する一方、物語をなんとか牽引しようとする天空に纏わる物語と関係がありません。また、このリングを深く掘り下げてしまうと、天空の勇者はおろか、母マーサの存在意義さえ危うくなってしまいます。リングが魔界の扉を開くのであれば、大魔王はマーサを攫うのではなくリングを探すべきでした。この不均衡は、現行の物語においてマーサが扉を開くことなく殺され、大魔王自身の力で扉をこじ開けられるに至ったと言及する節に、何とか整合性を保とうとする苦慮が見て取れます。
この点と天空城墜落の観点から、構想の中期において、魔界への入場を一時省いた可能性が高いです。
7 消えた竜神と二つの初期構想案
物語の起点を全てマーサの誘拐前後に持ってこようとする構成が残存します。実際、物語の駆動は彼女にあります。レヌール城の滅亡もこの前後に置かれ、その原因は勇者となる可能性のある身分の幼児を攫うことにある。
現行の物語において少し奇妙な点は、天空城の墜落が大昔であり、それ以降魔物が人を襲うようになったという設定がありながら、実際に大魔王がマーサを攫い勇者の芽を潰すため画策し始めたのが主人公の出生の前後であることだ。
初期構想にはなく中期構想に存在する問題点は、天空城とマスタードラゴンの扱いだ。
特に神の不在とプサンの設定はこのあたりで決定したものと考えられる。
ここまでを踏まえると、初期構想におけるエルヘブンの役割が異なった可能性も留意するべきだろう。つまり、エルヘブンが魔界と縁の深い役割を担ったのではなく、むしろ名称からして、より神聖な世界への扉を開けた可能性だ。けれどまぁ、単に異世界であればよい。どうであれ、マーサと勇者は異なる世界への扉を開けることの出来る存在だ。
神的な存在の不在と、それに付け入る大魔王。プサンと天空城の墜落の微妙な食い合わなさは、その構想が別の段階で取り入れられた可能性を示唆する。天空城が墜落する物語の肝はゴールドオーブにある。つまり、主人公が過去に戻るエピソードからの逆算だ。
ところで消えた竜神という設定を、現行の親子3代の物語と別案として考案された線を考察します。つまり初期構想と競合するドラクエ4の続編として構想された案です。
こういった案が複数構想されたことは想像に容易いものです。なぜなら現行のドラクエ5も続編として設定され、雑誌でも続編を期待されるほど、その構想はある意味で当然に考えられたものと思われます。
つまりドラクエ5の原案として、現行の親子三代のエルヘブン原案と、ドラクエ4の正当続編として構成された消えた竜神に纏わる天空原案の二つが存在したと仮定してみましょう。実際に明確な形で原案が残っている必要はありません。ぼんやりとした構想程度で充分です。
現行のドラクエ5において強烈な存在感を放ちながら、中途半端に放置されている要素が存在します。セントベレス山の大神殿を本拠とする光の教団です。
光の教団の活動内容は、実のところ大魔王ミルドラースの活動目的と合致しません。大魔王は魔界の扉を開き地上進出を狙いますが、光の教団は勢力を拡大させる傍らで勇者を攫うことを狙います。この点からも、光の教団はエルヘブン原案ではなく天空原案から発展したと考えられます。
なぜなら、光の教団という設定が成立するために必要な舞台とは、『竜神が消え天空城が墜落したため、魔物が跋扈する世界』だからです。彼らは裏で魔物と繋がっているからこそ、入団すれば救われるという教義を持ち勢力を拡大させます。この舞台設定をエルヘブン原案では必要としません。
ただし勇者の可能性のある人物をドラクエ4のように殺すのではなく生かして攫うアプローチは、エルヘブン原案における大魔王の手先の活動としては非常に理にかなっています。この点現行の光の教団の活動内容は、二つの原案が混じり合ったものとなります。
すると天空案での光の教団は本来どのような存在だったのでしょうか。彼らが全面に押し出てくる物語構成だったとすれば、世界は魔物によって非常に荒れ、偽りの平和を求める入団者によって世界全体が騙され混乱する、終末的な世界だったと推察可能です。
シンプルに天空原案を再構成するのであれば、このような形になるでしょう。
「天空の勇者によって大魔王が打倒されて数百年の平和が続いた。ある日、世界を治める竜の神が姿をくらました。神の不在によって世界は乱れ魔物が跋扈し、遂には新たに現れた闇の勢力によって天空城まで墜落してしまった。かつて世界を救った天空の勇者の行方は知れず、人々は救いを求めて光の教団と呼ばれる竜の神とは異なる神を信仰する新興宗教組織に入団し、仮初の平和を享受していた。ところがその実、光の教団こそ魔物を統率する闇の勢力だった。消えた天空の勇者と竜神を探し世界を救うため、主人公は冒険の旅に出る」
この原案において、主人公自身が天空の勇者でも特に問題はありません。天空原案において重要なのはドラクエ4のリブートであり、同じでも変わり果てた世界を旅し、勇者とその仲間たちの末裔を追い、竜の神と光の教団の真実を追い求める過程にあります。
偽りの神と魔物と結託する宗教組織というコンセプトは後にドラクエ7にて使用されます。特に神復活後Disk2における物語の構成は、この天空原案とよく似ています。こういったアイディアが堀井氏から発案されたと考えることは充分可能です。
天空原案における竜神の失踪と天空城の墜落を直近に求めることは理にかなっています。魔物が急激に勢力を拡大し、世界の危機が凄まじいスピードで迫っている状況だからこそ、天空の勇者の登場は切実に願われます。前述した天空城の墜落時期と実際に大魔王が行動を開始した時期の奇妙なズレは、異なる原案によって求められます。
けれど結局、天空案ではなくエルヘブン案が採用され制作がスタートした。しかし物語を書き進める中で妻の重要度を高めるべく、天空案の一部を取り入れることになった。
8 二つの原案を融合させた中期構想
中期構想はおよそ、次の通りと考えられます。
「世界は天界・地上・魔界の三つに別れている。天界から地上へは天空人が、地上から魔界へはエルヘブンの民が、それぞれが異なる世界を行き来する扉を司っている。ところがある日竜神が消えた。これを機に大魔王は地上進出を目論見、エルヘブンの民マーサを攫い扉を開かせた。世界は魔物で溢れかえり主を失った天空城は墜落。光の教団と呼ばれる宗教組織が勢力を広げる裏では、大魔王を唯一打ち倒す勇者の血筋を絶つべく画策していた。マーサを救うため父と子は光の教団と敵対しながら伝説に伝わる天空の勇者を探す。父の死、奴隷、結婚、出産。母マーサ同様に攫われた妻ビアンカこそ天空の勇者の末裔であり、我が子こそ勇者だった。勇者は沈んだ天空城に辿り着き、消えた竜の神と邂逅することで大魔王の手先である光の教団から妻を救出する。家族はいよいよ魔界へと渡り、遂に勇者の剣によって大魔王を打ち倒す」
この仮説上の中期構想は、エルヘブン原案をベースに天空原案を一部取り入れたものです。この構想の肝は前作から引き継いだ天空の扱いと、世界の緊迫度の異なりです。
つまり、既に大魔王が侵略を開始し、喫緊に勇者を探し出す必要性が極めて高い。
そしてこの構想が破棄された直接の原因でもあります。親子三代に渡る長い年月を描くエルヘブン原案から考えると、この世界に蔓延する緊急性は合致しない。三十年経っても一向に世界が滅ぼされることのない魔王の脅威はいざ知れず、そんな中子作りをして育てるだけの猶予が、この世界には残されていません。
この中期構想から調整を加えた後期構想に移るにあたり弾き出されたのが、天空原案の緊急性です。天空城の墜落を物語開始より遥か昔へ移し替え、大魔王は未だ魔界の扉を開くことが出来ずに手をこまねいている。ドラクエ5の敵組織に見られるチグハグさは、この構想の変化に伴う違和感を払拭しきれずにいるためかもしれません。
この中期構想に微調整を加えて現行のシナリオが完成したと考えて終わりでもよいのですが、せっかくなのでもう少しだけ、現行のドラクエ5に残る疑問点を考察しようと思います。
9 ブオーンの謎
ドラクエ5を遊んだ人間で、印象的だった敵がブオーンだという人は多いでしょう。パパスを殺した非常に因縁深いゲマやジャミと比べても、圧倒的な大きさと強さを誇ります。
ところがブオーンはどの構想段階においても、登場の余地がありません。そして現行のドラクエ5の物語においても、彼の役割は謎に満ちています。なぜ150年前に封印されたのか。エルヘブンとも天空とも関係なくインパクトだけ残して突発的に登場し、最後の鍵だけ残して終わる。フローラの父ルドマンと関係するため、恐らくエルヘブン原案からの登場と思われますが、実際物語の本筋から浮きまくっています。
最もシンプルに考えれば、ブオーンは結婚における最大の障害として設定されたのではないかと考察できます。ルドマンが強い人物を募りフローラの結婚相手を探した理由とリンクしている以上、元々の結婚の条件は「ブオーンを倒せた人物」だったのではないかと。
特に堀井氏はビアンカを妻とすることを前提に物語を構成しています。ルドマンはビアンカを妻にした場合でも家宝の天空の盾を譲ってくれる気前のいい人物ですが、ブオーン打倒をリング集めと入れ替えたほうが、構成上は合理的です。ルドマンが真剣に求めたのは娘にとって相応しい人格者というより、喫緊に迫る脅威を排除する強者です。その脅威を排除した人物が結婚相手を別で選んでも、ルドマンにとっては充分に家宝を譲るに値します。
そう考えると、だからこそブオーンの登場時期をズラしたのだと理解できます。
結婚イベントの肝は、ビアンカとフローラの不均衡にあります。より正確に言えば、主人公が選ぶのは二人の女性ではなく、父の遺言を全うするための天空の盾と、それを反故にしてまで幸せにしたい幼馴染との対立です。
フローラのイラストを鳥山明氏が担当していないのは有名な話ですが、それも当然です。構成上、主人公の視点から見てフローラは天空の盾のおまけであり、深く人物像を描かれるビアンカとは対照的に配置されます。
そんな状況でブオーンという強敵を打倒したならどうでしょう。プレイヤーはルドマンを窮地から救いました。明らかに報酬をもらえて然るべきと考えます。
そういった状況下で二者を選択する場合、ビアンカを選ばないという葛藤が薄まることは容易に想像できます。「危険を犯してブオーンを倒しといて何もくれないの?」と。ビアンカを選んでも天空の盾を譲ってもらえるだろうという予想は、選択の意義を弱めます。
ルドマンは確かに強者を募り試練を与え、主人公はそれに答えます。けれどもその目的までを完全に達成してしまうと、今度はルドマンが非常に弱い立ち位置に変わります。求める天空の盾は当然に譲る。その上で、約束していた結婚相手も、実は他に想い人がいるのであればそれでもいい。こうなるとフローラを選択する文字通り後ろ盾となっていた天空の盾が、その役割を果たさなくなってしまいます。
そのためブオーンは物語の後半に回された。主人公がビアンカを選んでいても、ルドマンには天空の盾を譲ってもらえた恩があります。人物像が豊かで魅力的になるのです。
150年昔に封印されたという設定は、この世界の緊迫度を和らげる働きがあります。後期構想において天空城の墜落を何百年も昔と設定し、光の教団と大魔王の活動を主人公の生誕の前後に置いた微妙な不均衡を調整するため、ブオーンはその中間に配置されました。
10 仲間モンスターシステム
後期構想にあたり、勇者の必要性を完膚なきまでに剥奪したのは、仲間モンスターです。
このシステムが開発のいつ頃から採用されたのかは分かりませんが、少なくとも物語の構想を考えるうえでは、必要不可欠な要素ではありません。このシステムは物語上の要請というよりかは、明らかにゲームデザインの面白さの観点から採用されています。
そして堀井氏は、物語の微妙な辻褄合わせよりもゲームデザインに注力して設計する節が彼の制作する全てのゲームにおいて見受けられます。
強いて言えば天空原案よりも、前作人物の足跡を描く必要性がない分、エルヘブン原案から考案された可能性が高いです。エルヘブン原案における主人公と勇者は魔界との接点が強く魔物との親和性が高いため、キラーパンサーくらいは既に存在していても不思議ではありません。現行の物語においても魔物使いとしての素質はエルヘブン由来と説明されます。
問題を掘り下げるなら、なぜ我が子である勇者を外すことを可能にしたのか、でしょう。
その理由は、「外せた方がゲームの自由度が上がって面白いから」と説明されます。
逆にそれ以外の理由を考えることが難しいほどです。面白さは何より重要です。
なぜなら、ゲームを面白くするために物語を作り上げるのですから。物語の整合性を優先してゲームの面白さを蔑ろにしては本末転倒です。勇者は面白さの犠牲になったのです。
11 双子ちゃん
エルヘブン原案で勇者の条件の例として上げた「女」という属性ですが、なぜか双子として生まれてくる男の子と女の子に、この名残があるのではないかと邪推します。特に根拠はありません。
エルヘブン原案において勇者として生まれてくる子は女の子だった。けれど構想が変化するにつれて、勇者が女の子である必然性が消えた。そこで大魔王を打倒する強力な勇者として当然想像される男の子が考案された。けれど、せっかく考えた女の子を消すのは勿体ない。そこで二人は双子として生まれてくることになった。
特別な根拠はありません。主人公が石化され成長した双子が主人公を探し出しますが、ある時点ではこの探索をプレイヤーが行っていたのであれば、主人公が仲間にしたモンスターを同様に扱える人物として、母の影響の強い天空の勇者ではなく、エルヘブン由来の父の能力を受け継いだ娘ちゃんがいてもいいと考えられたのでもいいです。根拠はないです。
12 最後に
私は以上のようにドラクエ5の構想の移り変わりを想像してみました。
正しいと主張するつもりは皆目ありません。こういう風に妄想を広げる楽しさが存在する幅広さに、この物語の完成度の高さと面白さが少しでも伝われば嬉しいです。
仮現論と養子論について
キリスト教神学の用語に『仮現論』『養子論』と呼ばれる言葉があります。
非常に大雑把な説明として、
・仮現論はイエスが死んでいないという論
・養子論はイエスが後天的に神の養子となったという論
ご存知の通り、現在で主流のカトリックや正教会、大多数のプロテスタント諸派では、イエスはキリストであり、処女懐胎によって生まれた神の子であり、三位一体の一角をなす主なる神です。
今回の記事では、これらの神学がなぜ、どのように発展したのかを順序立てて簡潔に纏めようと思います。
その際、どの時点から『キリスト教』が興ったのか、そもそも何をもって『キリスト教』とするか、『キリスト教』とは何なのかを論じるのは趣旨に反するため、極力用語そのものを使用せず進めていきますので、ご留意ください。
1:イエスの死
紀元1世紀前半のある時点で、ガリラヤの村ナザレ出身のイエスという男が死にました。
彼は生前に、一定規模の組織を形成して弟子を持ちました。
ナザレのイエスの死後、残された弟子たちが複数のグループに分裂し、地中海東岸に広く散らばり、地域の情勢に応じたイエス共同体を設立しました。
その一つ、北部シリアから小アジア、ギリシア地域にかけて、ナザレのイエスが死から復活したと考える一つの共同体が発生しました。これを便宜上『原始教会』と呼称します。
原始教会では、ケリュグマ(宣教)と呼ばれる信仰告白が中心にあります。イエスは十字架に架けられ死んだが、三日目に復活したという信仰です。
なぜこのような信仰が原始教会で発生したのか? 他の地域、ガリラヤやユダヤ・サマリア地域ではこのような教義は発生しませんでした。
ユダヤ人の多く住むエルサレム周辺の地域において、イエス共同体の布教拠点はユダヤ人会堂でした。イエスの教えを布教する主な対象はあくまでもユダヤ人だったと考えられます。ガリラヤや南部シリアではその人口比率からも異邦人への布教もあったと考えられますが、彼らは別のアプローチでもって、共同体のアイデンティティを保とうとした痕跡が残っています。
ともあれ。原始教会では、共同体の集まりはユダヤ人会堂ではなかったようです。彼らは地主など大きな屋敷を持つ信者の所に集まり、パンを裂きワインを飲み食事を取ったようです。こういった会食の形式、パンとワインによる祝いは古代ローマのギリシア人にとって一般的なものでした。
この会食の集いこそ、いわゆる聖餐の原型と考えられます。
問題なのは、イエスの教えに共鳴し集ったこの共同体を、外部の人間にどのように説明し得るか、という観点です。
つまり、ユダヤ人がいて、ギリシア人がいて、シリア人がいて、アラブ人もいるような、雑多でごちゃごちゃとした原始教会は、どのような正統性を持つのか。この正統性が問題です。
ある地域では、それは離散したイスラエル十二支族の伝統に支えられ、またある地域では、異邦人に割礼を施しイエスの教えを律法の神髄と見做したユダヤ人として支えるなど、複数のアプローチが取られました。彼らはイエスの『教え』に注力し、共同体の創始者としての権威は別として、その死については殆ど関心がなかったようです。
原始教会のユニークさは、共同体の創始者であるイエス本人にフォーカスを当てた点にあります。紀元1世紀当時のギリシア人にとって、集会の家と食事を提供する主人には、その集会を象徴する存在・創始者・神を集会の主と見做す風習が一般的にありました。
つまり、フェニキア人の集いであればバアルを、ギリシア人ならゼウス、哲学教師の集いならソクラテスやピタゴラスを、集会の主と見做していました。
原始教会はある種当然のこととして、この集会の主をイエスであると考えました。それは彼の死と復活によって集められた共同体のルーツであり、原始教会の存在それ自体が教義の根幹をなすという、教えとは別種の方向に劇的な勢いで発展を遂げた、イエス共同体の一つの飛躍です。
彼らはある時点で、イエスを神の子でありながら低く身を屈め、雑多で律法から離れきった混在する共同体の罪を償うために十字架に掛けられ、そのために、さらに主にまで高められた存在とまで見做すようになりました。十字架刑は当時、反乱者や重罪人などに与えられる、社会的に最も不名誉な見世物としての痛みを伴う処刑法です。
彼らにとってキリストという称号はある種、ヘレニズム的な『神の子』概念の言い換えでした。それはヘラクレスなどの英雄や半神に近しいもので、ギリシア人にとっても馴染み深いものでした。
ギリシア人が拒否反応を示すのはむしろ、イエスが血と肉体を保ったまま復活するというサドカイ派を除くユダヤ人の考え方でした。教養深いギリシア人は、肉体を悪いものと捉え、精神的なものを良いものと見做す、プラトン的な二元論に基づく死生観を持っていました。
パウロが入信した共同体は、このような教義を持っていたようです。そしてパウロは紀元50年頃からさらに踏み込んで発展させた神学でもって、独自の異邦人教会を設立したようです。
パウロの語る主イエス・キリストの神学は、彼が突発的に啓示を受けたというよりも、既にかなりの発展を遂げたものです。
2:カウンターとしての仮現論
さて。こうしてイエスの死と復活に注力した原始教会が生まれたわけですが、これに対抗した別のイエス共同体が存在しました。
彼らはイエスの『教え』に注力する共同体でしたが、北部シリアから小アジア一帯にかけて広く席巻した原始教会の成功に、危機感を抱いていたことと思われます。というのも、原始教会のケリュグマはイエスの教えとは別方向から発展を遂げてしまった、しかも布教に成功しつつある、競合相手だからです。
仮現論はこのような土台の上に、教養ある集団によって段階的に発生しました。
彼らはともあれ、原始教会の教えの最も根本的な箇所にメスを入れることにしました。イエスの死と復活の教義です。
この共同体は、ナザレのイエスを神の『言葉(ロゴス)』と考えました。この考えはむしろプラトンのイデア論から来るギリシア哲学の流れを導入した可能性もありますが、紀元1世紀のアレクサンドリアのユダヤ社会等では、このような知恵の考えが流行していたようです。
神の言葉を、神の最初で最高の被造物と見做し、言葉によって他の全ての世界が創り出されたという考えです。言葉は度々『知恵』と同一視されることもありました。
ヨハネ福音書やヨハネ書簡には、このような共同体を母体を基に、派閥分裂をして原始教会及びパウロの興した教会と合流を果たした形跡が見られます。そのため便宜上『原ヨハネ教会』と呼称します。
原ヨハネ教会が原始教会の教えのカウンターとして発展したのであれば、それは当初どのような教義だったと推察可能でしょうか? 凡そ考えられるのは2つのパターンです。
・ナザレのイエスと神の言葉であるキリストを別個の存在として捉え、彼の磔刑の際にキリストが離れたとする論。
・イエスとキリストは同一視し得るが、それゆえイエスは霊的な存在で、そもそも肉体を持ち得ず死ぬことさえなかった。
このうち、強烈に原始教会へのカウンターとして作用するのは前者の考えです。肉体と霊的な物を分離し善悪を二分する論法は教養あるユダヤ人にもギリシア人にとっても珍しくありません。またイエスの死は紀元1世紀半ばにおいて、彼の共同体内部では公然の事実として受け止められていたことと考えられます。イエスが死んでいないという考えは、どうも直接イエスを知る者の死んだ第2世代以降の発展と捉える方が自然に思われます。
決定的ではありませんが、ここでは一旦、イエスとキリストを切り分けた前者をベースに発展したと考えてみましょう。
この教義のユニークさは、イエスの教えそれ自体に極限まで権威を持たせようとした点にあります。それまでイエスの語録が口伝で継承されていたものが紀元50年前後に、現在では『Q資料』と呼ばれる文書の第1層が編纂されたと考えられていますが。原ヨハネ教会は語彙の多くを2世紀中頃までに段階的に編纂されたトマス福音書と共有しており、これらはQ資料の第2層の編纂されたユダヤ戦争勃発前後に同一(または非常に近しい緩やかなサークル)の母体から分裂したものと考えられます。トマス福音書がイエス語録それ自体を保存したものであり、他の福音書に見られるような言行録の形式を取っていない点からも、口伝で伝わったイエスの教えを重要視した共同体の存在を確認することができます。
このような背景を頭に入れると、仮現論の発展がすんなり理解できることかと思います。原ヨハネ教会は単に嫌がらせでイエスの死と復活の教義を否定したのではありません。彼らは競合する原始教会の死と復活の文脈そのものを否定できるほどの成功は収めておらず、あくまで文脈に則った形式で、ユダヤなどの他地域のようにイエスの教えそれ自体に注力させるために、イエスとキリストを分離させ、真に重要なのは神の言葉であるキリストであり、キリストの宿る生前のイエスの教えのみに主眼を置かせるよう心配りを行いました。
この試みはパウロ書簡からも一定の成功を収めたようですが、共同体内部での分裂が多く見られ、また当初こそ教えに注力させるための補足でしかなかった仮現論の教義それ自体が強い権威を持って発展し、原始教会から異端と呼ばれるグノーシス的な潮流を引き起こしたようです。
3:養子論を認められない処女懐胎
仮現論を見て分かる通り、キリストは死の折にイエスを離れた。すると、キリストはいつイエスに宿ったのか。
重要なのはイエスの教えです。彼が弟子に教えたのは、伝道を始めたタイミングに他なりません。彼らは始まりを洗礼者ヨハネからの洗礼に求めました。
洗礼者ヨハネとイエス共同体の関係は非常に微妙なものです。最も単純に考えれば、イエスは洗礼者ヨハネから実際に洗礼を受けた後に活動を開始したのでしょう。ただしイエスの活動と洗礼者ヨハネの活動にはQ資料の観点からは共通点も少なく、実際のところは何とも言い難いところです。Q資料の第1層には洗礼者ヨハネの影も形もありませんが、後年には洗礼者ヨハネの共同体を一部取り込んだようにも見えます。彼をエリヤだと考える者やメシアだと考える人もいたようです。マルコ福音書の前半部は洗礼者ヨハネとイエスとの関係性に焦点を当てることで、主題であるメシアの秘密を演出しています。
ともあれ、Q資料の第2層を編纂した集団や原ヨハネ教会はイエスを洗礼者ヨハネから洗礼を受けた者と見做しました。
さて、養子論が問題となるのは、つまり対立する論、処女懐胎が立つためです。そして四福音書の成立年代として最も古いと考えられるマルコ福音書では、処女懐胎という奇妙な論理は見られません。洗礼の折、聖霊が鳩のように下ります。マルコ福音書単独で読めば、むしろ養子論が前提に描かれているように読むことが容易に可能で、むしろ自然なように感じられます。
現代に生きる我々からすれば逆説的に思えるかもしれませんが、処女懐胎に対抗して養子論が発生したのではなく、養子論に対抗して処女懐胎が発生したと考える方が、自然に思えます。
それも、この対抗は別地域で最低でも2回に渡って起こりました。マタイ福音書の編纂と、ルカ福音書の編纂です。両者では異なる処女懐胎神話が描かれます。この点、養子論は当時かなりイケてる発想だったようです。
養子論は、ユダヤ人的な思想体系の土壌から発展したように見られます。というのも、この考えは唯一の主なる神を信じるユダヤ人にとって、人間や世界を超越した全能者の独り子よりも、神の相続人としてのモーセ契約を受け継いだ子孫を自負するユダヤ人にとって、ずっと理解しやすいものでした。
実際、原ヨハネ教会が仮現論の副産物として養子論を考え出したというよりは、むしろユダヤ地域の一共同体において主なる神をアッバ(父)と気安く呼ぶイエスを神の相続人と見做す思想体系が発展し、それを流用したと考える方が自然に感じられます。
すると本当に問題になるのは、養子論がなぜ発展したのではなく、むしろなぜ処女懐胎が必要とされたのかに他なりません。
処女懐胎には控えめに言って、無数のいらぬ問題があり、福音書はそれに対する多くの反論を苦しげに発しています。聖母マリアがカトリックにおいて非常に高い地位を占めるのは、その陰の反転とも言えるでしょう。彼女は処女懐胎ゆえ、最終的には無原罪の御宿りとまで高められなければなりませんでした。
ざっと考えても、処女懐胎の問題は以下の通りです。
・極めて神話的な処女懐胎という奇跡
・イエスが不貞の子であるという誹り
・イエスの親族への否定的な言及
・メシアがダビデの子孫であるという伝承との矛盾
特に致命的な問題は、ダビデの子孫にメシアが生まれるという預言との整合性にあります。この点マタイもルカも、異なる家系図を準備しながらも苦慮した様子が見て取れます。シンプルにダビデの子孫であるヨセフがイエスの父であれば、このような問題は起こりません。それでも彼らは多少の矛盾を承知の上で処女懐胎の教義を貫きました。流行する養子論への強烈な反論は、処女懐胎以外にはないと考えたのです。原始教会にとってそれほど養子論は不都合なものでした。
実際養子論は3世紀まで非常に広く流行したようです。三位一体の教義が考案されたのは3世紀に入ってからで、それまでは諸派それぞれのキリスト論を持っていたようです。
問題はむしろ養子論と容易に結びつけられる、イエスとキリストを分離する仮現論から発展したグノーシス的潮流だったようです。原始教会の根幹は死と復活の教義にあり、彼の出生については副次的なものでした。
つまり原始教会は、あくまでイエスを肉体にも復活したと主張しながらも、同時並行的に、イエスとキリストを完全に同一の存在と見做す必要がありました。ルカ福音書に描かれる、苦悶を浮かべないイエス像に、交差配列の技法を崩して、汗を流し懇願するイエスの描写を追加しました。ヨハネ福音書に描写される降下し上昇する神の言葉そのものである独り子イエスに、トマスの疑心によって肉体の復活を描写しました。律法の廃止ではなく完成を謳うマタイを重視しながらも、生前のイエスを知らぬパウロの説く律法の廃止と異邦人伝道を重要視した教会は、マルキオン・ヴァレンティヌスなどの異端的な教会との対立の中で少しずつ教義を発展させていき、紀元3世紀のローマ帝国分裂の折、迫害を受けながらも帝国の果たせなかった貧困層への社会保障を続け、欠けた帝国の機能を補完するように国教へと上りつめました。ニケーア公会議の後、もはや原始教会は正統普遍、使徒継承のキリスト教会へと発展していきます。
マルコもマタイもルカもヨハネも、処女懐胎と三位一体を念頭に福音書を執筆したとは考えにくいです。それは彼らのずっと後世になって権威ある司教たちによって政治的に考案されました。
恐らく養子論は、かなり早い段階で、あるイエス共同体で発展したキリスト論だったと考えられます。
それは神学的に充分な強度を保ち、長く信じられながらも、原ヨハネ教会が分離発展し受肉論を取り、原始教会と合流を果たした時点で放棄される必要に駆られました。
原始教会にとって養子論それ自体は、死と復活の教義において矛盾するものではありません。養子論と対立するのは、原ヨハネ教会から発展した受肉論にあります。
4:受肉論という妥協
処女懐胎の根幹には、受肉論があります。神の言葉であり独り子が、地上にて肉体を持ち受肉したという考えです。
これは原始教会へのカウンターとして発生した仮現論に対するさらなるカウンターです。敵の敵は味方になり得ます。そのために原始教会は受肉論を受け入れる余地がありました。
仮現論のベースには元々、神の言葉であるキリストが地上に降下するという、降下と上昇の類型を持つ神話体系があります。
原ヨハネ教会は少なくとも2度の分裂を繰り返しているようです。1度目はユダヤ戦争前後に、イエスの教えそのものに注力するトマス福音書を編纂した集団が。2度目はヨハネ書簡の執筆時期、権威を持って尊敬された長老ヨハネの死後しばらくに発生したようです。
原始教会からグノーシス的・異端であると認定された教会は、この小アジアからギリシアにかけて広範に広がるヨハネ共同体との対立にありました。元々原ヨハネ教会が原始教会との対立に仮現論を発展させたので、自然なことに思えます。
現在新約聖書にヨハネ福音書を残したヨハネ教会はむしろ、本来対立していたはずの原始教会との融和を選んだグループだったと考えられます。なぜそのようなことが可能だったのでしょうか?
まず、トマス福音書を残した共同体(以後トマス教会と呼称)は、原ヨハネ教会が本来のイエスの教えに注力するという観点から、独自の神学である『神の言葉イエス』を発展させ、教えそれ自体よりも強烈な神学体型・世界観を構築するに至り、分離したものと見られます。とはいえ、トマス教会もその世界観の一部を共有したようです。秘儀的かつ選民的な世界観です。
では原ヨハネ教会から分離したヨハネ教会ともう一つ(以後グノーシス教会と呼称)は、どのような相違から分裂に至ったのでしょう。
その争点こそ受肉論であり、イエスとキリストの分離にあります。ヨハネ教会は、本来の趣旨から外れ原始教会と融和し、イエスとキリストを再統合しようと考えたグループでした。そのためにはキリストの受肉が必要でした。受肉の神聖性とイエスこそ神の独り子である徴として、ヨハネ教会にはどうしても処女懐胎が必要でした。
仮現論で二つ挙げた後者、イエスとキリストを同一存在と見做しながら、霊的な存在であり肉体を否定するものは、この受肉論へのカウンターとしてより有効に機能します。それは肉体を悪と見做し霊的な衣を纏うグノーシス教会の考えです。律法の神とイエスの神を別の神と見做したマルキオンが2世紀に現れたのは、この分裂と融和の観点からも自然に思われます。諸派は相互に関係しあいつつ、独自の教義を発展させていきます。
受肉論はイエスとキリストとを再び結びつけるための、原始教会との融和のために必要なマスターピースでした。また原始教会も、内部に蔓延するグノーシスを反駁するために、彼らと一定の世界観を共有しつつも否定する受肉論はうってつけでした。
5:結びに
よく知らない人間にとって、キリスト教の教え――三位一体や処女懐胎、キリストであり神の子であり主そのもの――は非常に複雑であり、一見して謎めいて見えます。
しかし現在伝わる新約聖書とキリスト教の教えは、イエスの活動した瞬間に完成した状態で今まで伝わってきたのではなく、長い時間をかけてそれぞれの地域の人間が、自身の境遇に合わせて思想体系を生み出し、論議しあい、時には否定し時には融和することで発展していった、人間らしさの詰まったものです。
今回は非常に簡潔なアウトラインのみをなぞったため、根拠となる論述の欠けた、解説とも呼べない説明になりましたが、凡その全体像を流れとして掴むのであれば、それなりに纏められたかと思います。
本記述は原則としてバート・D・アーマンのキリスト論に基づき、適宜補足的にイエス・セミナーの他著書よりキリスト教発展の流れを取り入れた上で、私自身の見解も交えたものとなります。
なお本記事は確実にそのような成立史を辿ったと主張するものではなく、無論私も紀元1世紀当時を直接見たものでもありません。このように考えることもできるという、文化背景の知見に基づいた一つ仮説として受け取っていただければ幸いです。
完成について
何かが完成するというのは、それがもう動かなくなるときだ。
物語であれば完結であり、あるいは作者の死。とりわけ商業出版においては、作者自身の手から離れ、紙に刷られ、公に晒され、インクの染みを取り除くことができなくなったときようやく、完成する。
現在進行系で連載中の週間少年漫画でさえ、一巻は『完成』している。もう動かない。なかったことにはできない。
完成は時に物悲しい。空白にあったはずの無限の可能性はこじんまりと佇んで、暗く小さくまとまったそれらにはもう想像の羽を広げようがない。
生きたまま人生を完成させる人間がいるだろうか?
とはいえ、人は完成を目指す。止まるために坂を転がり始めるだんご虫はいないだろうが、それでも。目的の達成が完成だろうか? そんなことができるのだろうかと思う。
価値とは振り返り目を凝らして、辛うじて見えるものだ。フルマラソンを走っている最中の人間に、記録の価値は見えやしない。そして人は記録のためではなく、ただ走るために走っていることが往々にしてあるのだからなおのこと。価値は結果ではなく過程にこそある。死に様に拘る現代人がどれだけいるかを思えば、自然な発想だろう。
完成品の鑑賞とはつまり、死体を眺めて、悦に浸るようなものだ。
そして出版物の全て――本当に全部が――口もきけず野ざらしにされている。本読みは災難だ。彼らと僕は皆、会話の不可能な相手だからこそ、心から安心して向き合える。双方向性のコミュニケーションはあまりに重要な最高価値なので、もう少しどうでもいい、くだらなくて腐敗臭のあるごみ溜めにだけ、目を向ける。無価値で無駄で、けれどコミュ障な僕にはどうしたって必要なものだ。
古本しか買わない人間は間違いのない死体愛好家だ。なにせもう動かない。安く上がる。言い返さないし目を瞑りながら読めてしまう。そして何より、溢れかえっている。
ところで創作物には場合、初期構想がある。完成形とは遠い別の何か。
僕は物語の成立史を考えるのが好きだ。無駄が好きだから、そんなことを考えてもどうしようもないからこそ、たまらなく揚げ足を取ってはほじくり回してしまう。
別の可能性を考えるのが楽しいというわけではない。誤解だ。そこまでの思慮はない。僕の考察は常に、なぜ、無限の可能性から収束し、今の形で完成してしまったのかに思いを馳せることにある。空虚な悲しみが胸を打つ。あぁ、赤子はなぜ年を経る。この世に生まれ落ちてしまった悲痛に泣き続ければ、誰からも祝福されただろうに。35歳のおっさんが泣いてみろ、他に泣くのは親だけだ。ただひっそりと息をする。シーシュポスが大岩を山の頂上に運ぶのに必要なのは静寂だ。騒ぎ立てては敵わない。
読書は墓荒らしによく似ている。土足で踏みやって、綺麗に映るものだけ懐に入れて、唾を吐いて立ち去る。死体漁りほど楽しいものはない。なにせ死体も物語も語らない。どれだけでも搾り取れる。こそこそやれば視線も痛まない。乾いた趣向だ。
完成しない物語は存在しない。どのような形であれ全て、動き出したものは止まる。
止まってからようやく、僕らはその形跡を辿り、他の可能性と、その不可能性を思い、また泣くのだ。赤子ではないおっさんが。
完成、完成、完成……そしてこのくだらない文章も完成する。もう動かない。
エビオン派について
キリスト教とは何か、現代日本に生きる僕らはよく知らないと思う。
おそらく、近代ドイツや中世ローマに生きる人達もよくは知らないだろうし、古代ギリシア人やユダヤ人だって実のところわかっていないのだろう。
今回はそんなキリスト教の成立の話。
昔から常々謎に思っていたことがある。イエス・キリストの死と復活の教義だ。
彼の復活を信じる者は救われる。この教義こそキリスト教の核心だと理解している。使徒パウロも「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(『コリントの信徒への手紙一』第15章14節)と語っている。
けれど疑問に思ったことはないだろうか?
なぜ、彼の復活が直接、救いに繋がるのだろうと。
彼が十字架に架けられた理由はアダムから続く原罪を濯ぐためとは聞く。なるほど確かに、ユダヤの文化的風習には罪を犯した際の捧げの儀礼があったのだろう。彼は全人類の犠牲になった。
なら復活は?
人類から原罪を取り除くことが救世主として彼に課せられた使命だったのなら、なぜ彼は復活したのだろう。彼の復活と原罪に関わる使命とは――率直に言って――関係性ないように映る。死と、そこからの復活の教義はどうにも別々に発展したように見えてしまう。
もちろんこのような疑問を神父さんや牧師さんに聞けば、永遠の命の教義や神の権威について教えてくださるだろう。あるいは終末の前触れという話もしてくれるかもしれない。ともあれ原罪とは別の観点だ。こんな調子で復活は教義上必要がないと考える原始キリスト教徒もいたのかもしれない。でなければパウロが復活がなければ宣教も信仰も無駄だと反論する必要がない。
すると復活の教義は現在キリスト教の核心であるとされながら、その成立の初期において、あるいは取り除いてしまえるものだったのだろうか。
なぜ彼の復活を信じることは救いに直結すると、原始キリスト教は考えたのだろう。そして、救いの論理はどのように組み立てられていたのだろう。
ところで、これからエビオン派の話に移るわけだがその前に、現在正統派として残り新約聖書を編集したグループを「原正統派」と呼称する。これは参考文献代わりに読んだバート・D・アーマン著『Lost Christianities: The Battles For Scripture And The Faiths We Never Knew』による。知的好奇心をくすぐる面白い本なので、興味があれば読んでみてほしい。邦訳はされていないが、適宜翻訳にかければ誰にでも読めるのが時代の進歩である。
エビオン派とは、雑な説明をするとユダヤ人キリスト教徒の一グループだ。貧しいを意味するヘブライ語が由来のようで、禁欲的な生活を送っていたらしい。
彼らの際立った特徴は大きく三つ。
・律法の遵守
・養子縁組主義
・犠牲の廃止と菜食主義
そして僕が想像してしまうのは、キリスト教の出発点は、このグループではないかという勘ぐりだ。出発点とはつまりペトロであり義人ヤコブであり、使徒パウロが訪れたイスラエルの教団だ。
義人ヤコブが主導的な立場にいたことは使徒列伝にも記載があり、彼の実在は歴史家ヨセフスの記述にもあるように歴史的な事実として認められるだろう。彼はイエスの兄弟であったらしく、義の人だった。つまり律法を遵守する人だったようで、その立場は律法ではなく信仰を主にしたパウロとは隔たりがある。ヤコブとパウロは率直に異なる教義を持っていたようだ。現在まで残り正統派とされるキリスト教の信仰はパウロの説いた異邦人への福音に基づくが、彼はイエスの生前を知らず、教団の指導者としては明らかに後発の立場にある。
実際にイエスの教えがそうだったかは分からない。イエスの歴史的な実在さえ確証はない。しかし重要なのは彼の実在ではない。キリスト教は少なくとも、イエスの死後に始まったのだから。そしてイエスという一人の男を特別な地位に据え、既存のパリサイ派やサドカイ派、エッセネ派とも異なる信仰を形成したグループがあったとすれば、それはイエスと面識があったと主張する直系の弟子たち、ペテロとヤコブが主導したイスラエル教団であろうと推察される。
律法の遵守はなんら不思議でない。イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」 (マタイによる福音書第5章17節)と述べているし、直後に「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、 律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイによる福音書第5章18節)とも語る。マタイによる福音書は律法の強烈な擁護者だが、この姿勢はイエスが律法を終わらせたと語るパウロと異なる。これらの矛盾した文言が正統派の福音に聖典として残るのも聖書の成立史を探る上で興味深い。
イエスは生涯をユダヤ人として生きたし、彼の宣教の旅は終始ユダヤ人社会に留まっている。ナザレのイエスは律法を守るユダヤ人で、その弟子たちもまたユダヤ人だった。
養子縁組主義はこの文脈に則れば非常にシンプルな論理構成をしているように思える。少なくとも、三世紀に入ってようやく体系だった三位一体の教義よりか、神の相続人としての教義は幾分スマートに映る。
養子縁組主義の概要は単純だ。ナザレのイエスはヨセフとマリアと実子として生まれた。処女懐胎の教義はない。彼は律法を遵守しよく生きたため、洗礼者ヨハネの下で洗礼を受けた際に神の養子として相続を受け、キリストとなった。
相続の概念はユダヤ文化において極めて重要だ。アブラハムの子孫に相続される土地としてカナンの地は神から与えられる。
こういった教義の観点からすると、律法の軽視は問題外だろう。なにせこの教義によれば、イエスは律法によってキリストとなったのだから。
またマタイとルカでそれぞれ別の系譜でダビデからヨセフ、イエスへの血統が書かれていることを不思議に思う人もいると思う。なにせ処女懐胎の教義を採用するのであればヨセフからダビデに血統が繋がっていても意味がない。せめてマリアから繋がるべきだが、しかしマタイもルカも共に、ダビデの血縁はヨセフから繋がっている。これらはイエスが当然にヨセフとマリアの実子であると考えられていたのであれば、おかしな点はない。
ここで少し脱線してキリストという単語に注目したい。
キリスト――救世主と訳されるこの単語はもちろんギリシア語だ。ヘブライ語ではメシアという単語になるようだが、現在僕らがキリスト教をメシア教と呼ぶことはない。これは新約聖書がギリシア語を原典とすることにも由来するが、それ以外にも、キリストとメシアという単語には意味の相違が大きくある。ちょうど神道における神とキリスト教におけるGODとの違いのようなものだ。同じく「神」という言葉で通じるが、実際の意味は異なる。
どうにも本来メシアという言葉は、かなり限定的な言葉だったらしい。地上でユダヤ人の敵(直接的には支配者であるローマ帝国)を倒し新しいイスラエル王国を樹立する――そういう意味での救世主がメシアだ。
しかしギリシア文化圏におけるキリストは違った。というのも、イエスがキリストとして広がる前から既にローマ帝国内では数多のキリストが存在した。代表的なのはミトラ信仰だ。ミトラもキリストだった。ならばミトラは新しいイスラエルを建国するのか?もちろん違う。ミトラはキリストではあったがメシアではない。ミトラや他のキリストに見られる特徴は、地上的というよりかはむしろ精神的なものだった。
ユダヤ文化の文脈にあったメシアであるイエスを、ギリシア語で宣教を行う際に、似た概念であるキリストに単純に置き換えたわけではない。これらは相互に関係しあっていた(異端と切り捨てられるグノーシス主義についても、こういったギリシア文化と混じり合ったユダヤ人グループの潮流としてキリスト教成立以前から形成されていたようだ)。ともあれ、イエス・キリストは異邦人であるギリシア人によく広まった。
話は戻りエビオン派だ。彼らは菜食主義を採用していた。というのも、犠牲は廃止されたからだ。誰に? もちろん、彼らの信じるイエス・キリストに。
なぜユダヤ人が神から肉食を許されているかと言えば、それは犠牲であるからだ。血の犠牲だ。イエスはそれを自らを犠牲とすることで、犠牲を廃止したのだという。
ここに洗礼者ヨハネのグループとの関係が窺える。彼らが清めるために水を使用したのはなぜだろう。彼らはなにを食べていたのだろう。
エビオン派の使用したとされる福音書は現存しないが、反駁として数節が残っている。その中で、洗礼者ヨハネの食べ物を間違って書いていると、原正統派が指摘している。
現在僕らは洗礼者ヨハネが野蜜とイナゴのみを食べると知る。しかしエビオン派の福音書によれば彼は蜂蜜とケーキのみを食べると言う。
どこからケーキが出てきたんだと思うかもしれないが、ギリシア語においてイナゴとケーキはスペルが一語しか違わない。そしてこの場合におけるケーキとは、僕らが日常に食べるシフォンと生クリームの苺ショートケーキとは全然別物の――これはつまり過ぎ越しに食べる酵母なしのパンマッツァーに相当すると考えられる。
そして野蜜――これははっきり言えばマナに相当するものだ。出エジプトにおいて荒野を四十年彷徨ったモーセとユダヤ人に神が与えた食べ物だ。
エビオン派の語る洗礼者ヨハネは明らかに出エジプトを重ね合わせている。そしてもちろん、小麦も水も油も、肉ではない。菜食だ。
実際にヨハネが蜜と油を混ぜたパンだけを食べていたかどうかはもちろん分からない。しかしイエスとヨハネの密接な関係性は、四福音書全てに記述されていることからも、疑い難い。原始キリスト教団と洗礼者ヨハネのグループは、イエスがヨハネの言葉を引用していることからも窺えるように、極めて親しかった。あるいはエッセネ派と呼ばれるグループがそうだったのかもしれないが、この点は文献もほとんど読めておらず、話の本筋からも脱線するため避けておく。
イエスの死が犠牲の廃止にあるとすれば、復活は?
思うに、なぜパウロは復活の重要性をあれほど強い言葉で強調する必要性があったのだろうか。その言葉を各教会に手紙として送らなければならなかったのだろうか。そうではないと考えるグループが存在したからだ。ではそのグループはどのようなグループだったのか? 木端の些細な一集団であれば、彼がこれほど激しく糾弾することはないのではないだろうか。それはパウロの教団にとって十分に脅威であった。
預言者に復活した者はいない。地上での復活はそれまでのユダヤの文化には存在しないものだった。それは非常にギリシア的であった。
なにが言いたい?
キリスト教成立の初期において、イエス復活の教義はなかったと、僕は思う。あったとしても副次的なものに過ぎなかった。重要なのは彼の復活ではなく、死にあった。
彼の復活を強烈に要請したのは別のグループだった。その一つにパウロの教団があり原正統派が台頭した。エビオン派は隅に追いやられ、ヨルダン川を超えて歴史の狭間に忘れられた。
最後のほうがだいぶ雑に端折ったけれど、こういう穿った見方は楽しい。ある漫画の初期構想を現存する話から推測し復元するのを考えるとき、とてもワクワクする。
正確性はハナから問題ではないけれど、突拍子なければよいでもない。納得感だ。納得は全てに優先する。第二は好奇心をくすぐるか。そして外聞。
ナザレのイエスが復活しなかったと考えるグループがキリスト教を創始したか――まずそんなことはないのだろうが、けれど。
想像することは楽しいものだ。
僕のXデーについて
Xデーという言葉がある。
いつがその日かは分からないが、その日には何かが起こるというアレだ。
自分の心の内を話すのが恥ずかしくて他人に言うことはないけれど、何を隠そう僕はあるXデーを心待ちにしている。
そんじゃそこらのXデーじゃない。僕の待つその日は、それはもう、とんでもない一日だ。
そんなXデーについて少し話したい気分になっている。きっと秋風のせいだろう。
待たれるXデーの性質を以下に箇条書く。
①その日がいつ来るかは誰もしらない。もちろん僕も知らない。
②その日になにが起こるかさえ誰も知らない。なにせ僕も知らない。
③けれどその日が来れば必ず、僕はその日がXデーだと理解する。
④これまでの僕の人生はその日のためにあって、同時に、その日以降の僕の人生は精々その日を向いて後ろ向きに逆行するに過ぎない単なる抜け殻のように成り果てる。
⑤その日は必ず訪れる。
これは本当に、僕にとっては切実な胸の内だ。
ちらと聞いて陳腐な宗教的信条に過ぎないと看過した人もいるに違いない。根本の発想として携挙やらノストラダムスやら史的唯物論やらと大差がない。将来に備えるほどの価値があり、準備や前進が価値を最大化するという思考には、これといった根拠がない。彼らにとってはそれでいいのだろう。真に重要なのはその日ではなく、その日に備える心構えや行動であり、議論はいずれ今現在に焦点を当てることに移行するのだから。
けれど彼らはその日になにが起きるのか、完全ではないにせよ、概要を知っている。
僕は違う。その日になにがあるのか、なにかがあるのかさえ、僕は知らない。
不意に思えば、なにもない一日でさえXデーになりえるのだ。
そしてその日は僕にとってあまりに決定的な価値をもたらす。僕という存在の価値がその日全てに集結するし、これまでの僕の行動の全てがそこに集約される。
待って、待つ。僕はこれでも待ちぼうけるのが好きな人間だ。気長に生きていたい。
いい日になればいいなと、よく思う。待つだけの僕という存在にいくらかの値打ちをつけてくれと願いもする。けれどその日に対しての邪推に価値はない。というのもその日以外に、少なくとも僕にとって、価値のあるなにかというものは、原理上ありえないからだ。
こういった馬鹿みたいに子供じみたXデーを胸に抱えて、日々を待ち放浪する人は僕以外にどれだけいるのだろうかと、時々考えたりもする。そういないだろうと思いつつ、一人か二人はいてもいいんじゃないかとも。
一切の価値のきらめきが取り払われた人。その日を希望だと考えることは間違っている。その日が訪れたら、もうなにも残らないのだから。そして訪れるまで、手元にはなにも持ち得ない。荒涼とした砂漠の遭難者のように飢え乾き、映る風景は乾燥しているような人。一人か二人は、いるんじゃないかと、たまに考える。
その日のためにできることはなにもない。なにが起こるのかわからないのだから、なにかに向けての努力など、できようがない。待つことだけが、できることだ。
こういう性質をよく考えて、恐らくこのXデーは、それを忘れて放棄する日を、後から気づいてそう呼ぶことになるような気がして仕方ない。
その日を捨てて初めて、僕はその日を境にあらゆる価値を手中に入れられるのだから。
するとXデーはそう遠からず訪れるのかもしれない。自分次第でその日は来るのだ。
……本当に?
そう考えても、左手の窓の外を眺めて、秋風に吹かれると、間違いと乾いた目に息を吐いてしまう。その日になにが起こるのかいつ訪れるのか――訪れるまでなにもわからないことこそ、僕の胸の内のXデー公理だ。
だから、Xデーはまだ来ない。
僕の考えるXデーはそういう乾いた一日だ。